果てしなき渇き 深町秋生
大いなる復讐の完成
ぶっ壊れてる父親が娘を探す。その娘は父親の想像していた存在では全くなかった。
家族が自分の知らないところでとんでもないことをやっていた、と言う点で、「世界の終わり、あるいははじまり」に似ているかもしれない。
復讐は何も生まないというけど、復讐しなきゃ人生が始まらないというやつも存在する。
(こんなセリフをジョジョでエルメェスがいってたな)
その復讐によって人生が始まる前に人生を破滅させる奴も多いけど。
自分は中学の時に不良に怯えていた。
もしその時に不良に人生を破壊されるような経験をしていたら、どうなっていただろう。
自分は怯えるあまりそれを求めていたきらいさえあった。
何も起きないのに怯えているだけよりも、確定したマイナスのほうがいい、そのほうが悩んだことに意味がある、という奇妙な価値観があの頃にはあった。今も少しあるのかもしれない。
分厚い割にあっさり終わるな。
もっと後半盛り上げてもいい。
友がみな我よりえらく見える日は 上原隆
人が自尊心を回復する方法は様々だ。
その一つは、自分と同じような、あるいはそれ以下の生活や精神でいる人を見ることだと思う。
友がみな 我よりえらく 見ゆる日よ 花を買い来て 妻と親しむ
人生は苛酷だ。
そうであっても、頭をおかしくしてでも、何かを掴み取れる程度の明るさを持たなくてはならない。そうじゃないとあまりに意味がなさすぎる。
そうやって生きている人々がいる。
それがわかる。
そして馬鹿らしい。
哲学の本を読むのに家事もできない男。
近いものが遠くて、遠いものと親しんでいるアンバランス感
観念ブタ野郎にならないように
2015/12/29
からかい上手の高木さん に漂っている、壊れやすさと悲壮感。
二人は幸せなように描かれているけど、男女が同じ立場でからかい合う、なんていうのは、小中学生の一時期にしか起こり得ないと思う。
(人生が充実している人はそんなことはないのかもしれないけど)
秒速5センチメートルのような、切なさが待っていてもおかしくないような怖さと期待がある。
高木さん と、となりの関君 はなんとなく表裏一体の感じがする。
からかわれたい、という感情と見守られたいという感情は、男子学生なら誰でも持っている。
2015/12/20
漫画と小説では漫画の方が好きだけど、感想を書くなら小説のほうが、いいと思う。
マンガは例外はあるけども、ほとんど紙面上で表現されているから、後からなにか言うべきことがほとんどない。
例えばワンピースもキングダムも、めちゃくちゃ面白いけど、真面目に何か感想のようなことは書きにくい。
逆に小説は説明しているようで、マンガよりも説明していないから、感想の書きがいがある。
心理描写が多いからと言う点もあるかもしれないけど。
マンガと小説を比べたら、漫画のほうが絵が付いているのだから、情報量が圧倒的だ。
そしてその情報量の多さ故に、考えることが難しくなっている。
説明していないのは実は小説のほうなんだと思う。
「死にたくなるしょうもない日々が死にたくなるくらいしょうもなくて死ぬほど死にたくない日々」 2
阿部共実最新作。
初出を見てみると、必ずしも掲載された順に並んでいるわけではないことがわかる。
ひとつの作品としての流れを考えてくれているという配慮が嬉しい。
阿部共実のマンガの特徴として、女の子の会話文がとても魅力的であることが挙げられると想う。
「でもでもは女の子相手にご法度だよ 映画や漫画の話題だけではなくもっと日常会話でも私楽しませろーい」(7759)
こういう言葉を発する女の子こそ、阿部共実の作品に出てくる女の子の魅力だ。
フィクションの中でありながら、また別のフィクションの中から言葉を借りてきたような話し方をし、そのぎこちなさを韜晦するように、語尾は「ろーい」とふざける、みたいな。
「あれをね 奪ったらおもしろいんだよ」(同じクラスの鈴木君のねこの人形)
「あれを奪ったら面白いよ」ではなく、「あれをね」で一回ためることで、末尾の「だよ」が強調され、女の子的なたくらみの様子がうまく表現されている。
8304、7759 ともに数字4桁でこの巻で最も印象的な話だが、ふたつともタイトルの意味がわからない。
わかったらどんどん修正していこうとおもう。
はっきりいって、1巻のインパクトは超えられていないかもしれない。だが、今回8304のような、また新たな幻想的な世界に挑戦していて、実験的で面白く、読んでよかった。なんだか、綺麗なのだ。死んでいくのに。腐敗していく直前の、閃光のような儚い美しさがある。
8304 7759 は、生きてきた時間の長さか。そういうことを指摘している人がいて、なるほどなと想った。
ただ、自分としては、8304のけんちゃんは、7759の橘くんと同一人物ではないかと想っているので(「自分は欠陥だ」とおもっているところなど、そういえば古谷実の「ヒメアノール」の殺人にしか快楽を感じないやつに近いものを感じる。)
その解釈だと7759で人生が終わっているはずの橘が、8304という累計日数に到達できるはずがないから、橘とけんちゃんは別、あるいは数字には別の解釈があるということになる。
なんにせよ、感想を書きたいと思わせるマンガだ。すばらしい。
「世界の終わり、あるいは始まり」 歌野昌午
息子よ、お前なのか。
「葉桜の季節に君を想うということ」を以前読んだときから、この作者はすごい人だと思っていたが、この作品でそうした思いはさらに強まった。
非常に実験的だ。何にせよ、実験的なものは評価したい。
パラノイアじみた父親の思考の物語。
ここまで緻密に妄想できたら、もはや現実を生きる意味はあまりないのかもしれないね。
世界の終わりを、父親は何度も体験する。妄想の中で。
そして妄想で得られた凄惨さを回避するために、妄想からフィードバックしてまた妄想をする。
タイムリープものに本質が似ている気がする。フィードバックして強くなる。
最後まで、事態は動いていない。動いているのは父親の頭の中だけである。
エロゲー的リアリズムというか、バッドエンドの妄想が複数あって、それが緻密なのだ。
父親は妄想から帰ってこれなくなるかと想った。
けれど、最後には現実と言う世界の始まりに戻ってこれた。
妄想という世界の終わりから、現実という世界の始まりに行き着くまでの物語なのだ。
いい。