「クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い」 西尾維新
かねてより読みたかった西尾維新の作品。そしてこれがデビュー作。
この本の中で、主人公の「ぼく」は人生に絶望している。何事にも無関心だが、他人には流されてしまう。無関心だが、それを理由にコミュニケーションをすべて断絶するほどの勇気や根性はなく、ただ流される。
最初のほうの、「人の生き方ってのは~」から始まる、何物かはっきりしないやつとの会話が、妙に突き刺さった。往々にして読書をしたときは、筋を要約するときに必ずこぼれるような部分のほうが、胸に残ったりするもので、そういう部分を考えるときが一番楽しい。筋なんかウィキペディアにのってるんだから、自分が言う必要なんてない。
自分の価値の低さを認識して生きていくことに価値はあるのか。
それだったら世界の価値の低さを感じながら、世界を見下して生きたほうが、精神的には安全じゃないのか。
自分の価値を何物かに回収されるのか、それとも自分が回収する側に回るのか。
自分の価値の低さに絶望することに意味なんてない。あるとすれば、せいぜい、「かわいそうだね」といって近づいてきてくれる優しい人の同情を買えるだけだ。
従順になって絶望して奪われる側にしかいられないくらいなら、適当なところで反抗して奪う側に回ったほうが、他人はどうあれ、自分にしたら得しかないじゃないか、と思う。
他人に回収されたい、という思いは、結局のところ、他人の中でいつまでも自分を作品のように存在させたいと言うことなんだろう。
その作品の要素を、植物を育てるように、他人に散布させたいと思っているんだせいぜい。
これがくだらない。
回収 と 散布 から自由になること
内容自体は、ミステリ。
話がわかるとタイトルの上手さがわかる。
キャラクターの描写が非常にアニメ的で、挿絵は章と章の間にしか入っていないが、ライトノベル的と感じる。
ミステリ自体のすごさは可もなく不可もなくと言った感じ。
主人公とヒロインについての説明が最後まできちんとされていない。一体5年前に主人公に何があったのか。
1巻で説明してほしい。
また、「戯言だよな…」という独り言は、かなりキモく、読んでるとなんなんだこいつは、と思ってくる。
ただ、そういう意味でいい感じでハードルが下がるので、たまに出てくる上手い表現を見ると、やるじゃん、と思いやすい。
まとめると、やっぱり話題になるだけのことはあって西尾維新はうまい、ということ。
「!」 二宮敦人
3編のホラーを収録
「クラスメイト」はミスリードを誘うのが不自然すぎる。
「穴」は主人公の女の死体に対する感覚が慣れすぎてて、こいつが夢遊病的に殺してたのかとも思ったが、そこは単純に描写が甘かっただけらしい。
でも犯人はそれ以外なら男だと思っていたから、意外と言えば意外だけども、すかっとしない。
「全裸部屋」この中では一番いいんじゃないか。
設定がありそうであまりない気がする。最後まで人為的な何かを感じさせずに、女が哲学的になっていくのは面白い。
部屋がどんどん小さくなって行く描写がうまい。
体育座りの状態で足の間に頭を入れるけどもう戻せなくなる、とか。
ただ、あまりにも客観的になりすぎていて、例えば、彼氏と電話して自分の悲劇の異常さを他のフィクションと比べるところなどは、説明しすぎている感がある。そういうのは読んだ人の心の中に感じさせるべきもので、作中で直接言うものではないのではないか。
アルファポリス文庫は市川拓司がすごかったけど、やっぱり荒削りなものも多いなー。もとがネットだから仕方ないけど。
全部「全裸部屋」くらいのクオリティなら良かったんだけど。
タイトルはうまいと思う。手に取らせる
「白痴」 坂口安吾
観念を乗り越えたい。観念は弱すぎる。なんとかして現実・実践にもっていきたいものだ。
弱者である観念だけの存在は、非常に利己的で、「冷酷」で「鬼」になれるということを、この短編集のなかの「青鬼の褌を洗う女」の中で坂口安吾は見事に指摘している。僕はこの話がこの本の中で、「私は海を抱きしめていたい」と同率トップで好きだ。
思うに、現代社会は観念社会で、現実・実践にほとんど触れずに学校を卒業することが可能だ。
そして自分自身がそうで、
仕事のような、実践のみ求められる場では、立ち尽くす。そして、観念的にも醜悪で、無論実践的にも何の役にも立たない存在となって、二重の意味で自分を苦しめる。
白痴 とは、観念だけになった状態なのかもしれない。
実践や現実を全く欠いている自分は、職場で他人に、バカにするような眼で見られる。
そして、「白痴」に出てくる女のように、「放心と怯えの皺の間へ人の意志を通過させているだけ」なのだ。
観念の世界では優劣がないが、現実・実践の世界では、優劣があるどころか、むしろ、優劣しかない。比較し、合理的なものを選択し続ける作業が、実践の場であるからだ。
自分は、実践に対しての全くの白痴であり、できることなら、白痴のままで実践の場なんて出たくない。ずっと温存しておきたいのだ、観念の世界で。
しかし、社会はそういう碇シンジのような考えを許さない。
現実・実践の白痴は、フィクションという観念の世界に生きる意味を見出すしかないのか。だとしたら、観念は残酷な循環を生んでいる。
実際のところ、今の自分に生きる理由なんて、実践という観点からは何もないのだ。
現実・実践において、自分の居場所はないし、そもそもこんな空間好きじゃねえんだよバーカ、という感じだ。
ここで終わってしまったら、ただの絶望や切なさの表明であり、それは最も観念的で、自分を自分以上に見てもらおうとする行為であり、今の自分にとって乗り越えなければいけないものだ。
観念的、とは、自分を作品にしてしまう感覚だと思う。
見る側よりも見られる側、審査する側よりも審査される側に回ってしまう。
そういう意味で観念的になることは積極性をなくすことだが、観念的な存在は、その「積極性がなくなってしまった自己」をまた評価の俎上にあげるのだ。
無限に「見られる」、「審査される」という対象物になろうとする浅ましさが、観念的な思考の正体だろう。
しかし、観念的な存在は実践的なものとの間で苦しんではいても、生きている人間を見る、と言う行為をしないのだ。「青鬼の~」でサチ子が久須美のことを心中で痛烈に批判するがごとく、観念的な人間は人生や他人すらも観念で捕らえて、現実・実践的な眼で見ることをやめているというかその能力を獲得していないから、よく言われる、「他人は自分にそこまで興味を持っていない」ということを、腹の底から理解するということが困難なのである。興味をもっている、という前提で思考が始まっているんだ、観念の人は。
通常の人間が少年期や思春期のどこかで獲得する感覚を、観念の殻に閉じこもった人間は獲得できないまま大人になり、いつまでも「見られること・審査されること」を基準に一喜一憂し、自分自身の満足という観点から物事を行うことができない。自分はそこから抜け出したい。
見られることを待っている対象物 になるよりも、
不気味で醜悪だけど意志を持って動いているなにか、のほうが上等だ。
「ほしのこえ」 大場惑
『一五歳のミカコだよ。ね、わたしいまでも、ノボルくんのこと、すごくすごく好きだよ。』
新海誠が原作のアニメを小説にしたやつ。
15歳のミカコにしてはそぐわないような言葉を使ってしまっていて、ん?と思う。主観年齢とか。
ミカコが徴用されているのを言うシーンは最終兵器彼女に似てるなーと思う。いい意味で。
再開したときに、もっとカタルシスがあるかと思ったら、めちゃくちゃあっさりした終わり方だった。
もっと克明に描けばいいのに。
超遠距離恋愛。
時を超えて好きでいるということ。
新海誠の後書きがかなりいい。
声を届ける。
声を届ける立場に。
誠実さに胸を打たれる。
友達からも親からも聞くことができない大切な声。
今よりも強く、深く、手に触れられそうな、憧れや不安
「テラフォーマーズ」 15
言葉が強くていい。
後ろに君がいる。
何かのために がオレにはない。
ネタバレになるから名前は伏せるが、ある夫婦の死が壮絶すぎる。
二人とも同じように上半身吹っ飛ばされて死ぬってなんという後味の悪さだ。
そして二人は、ちゃんと生きていた過去があった、ということを思い出させる。
夫の方っていつ死んだのか。
とにかく、初期の頃のような無慈悲さがあって、ハッとさせられる。
最近のテラフォーマーズはミッシェルは実は生きてました、とかヌルいことやってたから、この巻に出てくる死は余計に響いた
坂口安吾が言っていた、無慈悲、無情の、「文学のふるさと」がここにある。
そうしないと人生が前に向かない。
魂が燃焼している。
全体を把握しづらいんだけどやっぱり見せるし面白い。
「64 」 横山秀夫
表紙がかっこいいね。
タイトルもかっこいい。ロクヨン。
1ページあけて、カラーページに電話ボックスが奇妙な光の中にあるのも、怖いような、幻想的な光景で良い。
ただ、長すぎる。
650ページくらいある。
基本的に、500ページを超えている小説は気をつけなくてはいけないと思う。例えば、450ページ読んで、あまり面白くなくても、読み続けてしまうだろう。
そして、面白かった、とか思うんだろう。認知的不協和だ。
別につまらなくはない。
でも、400ページくらいにできたんじゃないの、と思う。登場人物が無駄に多い。「志乃ちゃんは〜」の登場人物の少なさを見習ってほしい。そして、人物描写が浅い、と思う。あまり好きになれない主人公の三上の目を通した人物評価ばかりで、なんだかね。警察の内部紛争を緻密に描いているのはわかるけど、人間を緻密に描いてくれないと、立派な建物を見ているだけのような気分になる。
最後の方、64事件と新たな誘拐の関連が明らかになる時、確かに、ミステリーならではの、あの、ページをめくるのが怖いような、静かな興奮はあった。
それがあるだけでこの本はまぁ面白い本に分類していいんだけど、うーん。
醜形恐怖症とか、釣り合いの取れない容姿の夫婦とか、面白そうなテーマは散逸してるのに、深く掘り下げてくれない。もったいない。
娘そのまんまかい。
64の犯人を暴いた方法たしかにすごいけど冷静になったら不可能だろ、と思わざるを得ない。
そもそも電話に出ない人間とかいただろ絶対に。穴だらけの状態で虱潰しに続けるだろうか。
うーん。
「堕落論」 坂口安吾
またもやフィクションじゃなくて評論。
この評論集の中では、坂口安吾が小林秀雄について書いた、「教祖の文学」の中に、生きることの意味のわからなさがちゃんと書かれていてえらい。
えらいね。
人間は何をしでかすかわからない。自分でもわけが分からないし、そんな状態で行動して、恥にまみれるときがある。それでいいじゃねえか、といってくる。
いいね。
自分は、普通の人のように器用に働くことができず、毎日鬱屈して仕方ない気持ちになっているので、こういうことをまともに論じている本を見ると心底嬉しい。
自分のような人間が所属する層はいつの時代も必ずあっただろう、
そういう層を救ってやる言葉は絶対に必要なんです。
自分は仕事をするとき、何をしでかすかわからなくなってしまう。全然自信がない。
他人が当たり前にやる作業を、いちいち周りの人に確認しなければ、進めることができない。使えないやつだな、という視線が突き刺さって痛い。
そういう頼りがいがなくて自信がまったくない人間でも、普通の人のように働かなくてはいけない。
そういうときに、死ぬほど嫌な通勤電車で、唯一頼りにしているこの本の中に
『人間というものは、自分でも何をしでかすか分からない、自分とは何物だか、それもてんで知りやしない、人間はせつないものだ、然し、ともかく生きようとする、何とか手探りででも何かましな物を探し縋りついて生きようという、せっぱつまれば全く何をやらかすか、自分ながらたよりない。疑りもする、信じもする、信じようとし思いこもうとし、体当たり、遁走、全く悪戦苦闘である。こんなにして、なぜ生きるんだ。』
という文章を発見し、泣きそうになったのだ。
また、ルソーがたしか、「生きることは行動することだ」みたいなことを言ってたような記憶があるが、
安吾はもっと優しく、勇気がないものも肯定する。
『文学は生きることだよ。見ることではないのだ。生きるということは必ずしも行うということでなくともよいかも知れぬ。書斎の中に閉じこもっていてもよい』
優しい。
が、その状態でも『人間の詩』を歌うのが作家なのだ、という。
人間の詩って格好いいな。
オレもいつかは人間の詩を。