「堕落論」 坂口安吾   

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またもやフィクションじゃなくて評論。

 

この評論集の中では、坂口安吾小林秀雄について書いた、「教祖の文学」の中に、生きることの意味のわからなさがちゃんと書かれていてえらい。

えらいね。

 

人間は何をしでかすかわからない。自分でもわけが分からないし、そんな状態で行動して、恥にまみれるときがある。それでいいじゃねえか、といってくる。

 

いいね。

 

自分は、普通の人のように器用に働くことができず、毎日鬱屈して仕方ない気持ちになっているので、こういうことをまともに論じている本を見ると心底嬉しい。

自分のような人間が所属する層はいつの時代も必ずあっただろう、

そういう層を救ってやる言葉は絶対に必要なんです。

 

 

自分は仕事をするとき、何をしでかすかわからなくなってしまう。全然自信がない。

他人が当たり前にやる作業を、いちいち周りの人に確認しなければ、進めることができない。使えないやつだな、という視線が突き刺さって痛い。

 

そういう頼りがいがなくて自信がまったくない人間でも、普通の人のように働かなくてはいけない。

そういうときに、死ぬほど嫌な通勤電車で、唯一頼りにしているこの本の中に

 

『人間というものは、自分でも何をしでかすか分からない、自分とは何物だか、それもてんで知りやしない、人間はせつないものだ、然し、ともかく生きようとする、何とか手探りででも何かましな物を探し縋りついて生きようという、せっぱつまれば全く何をやらかすか、自分ながらたよりない。疑りもする、信じもする、信じようとし思いこもうとし、体当たり、遁走、全く悪戦苦闘である。こんなにして、なぜ生きるんだ。』

 

という文章を発見し、泣きそうになったのだ。

 

また、ルソーがたしか、「生きることは行動することだ」みたいなことを言ってたような記憶があるが、

安吾はもっと優しく、勇気がないものも肯定する。

 

『文学は生きることだよ。見ることではないのだ。生きるということは必ずしも行うということでなくともよいかも知れぬ。書斎の中に閉じこもっていてもよい』

 

優しい。

 

が、その状態でも『人間の詩』を歌うのが作家なのだ、という。

 

人間の詩って格好いいな。

 

オレもいつかは人間の詩を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「夫婦茶碗」 町田康  

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夫婦茶碗」と「人間の屑」の二編を収録

 

両方とも屑が出てくるけど、なんかちゃっかり人生を楽しんでいるような屑であるから、見てて親近感がわかない。

妊娠させすぎだろ。

人間失格」もそうだけど、簡単にセックスしちゃってる人間が自分は屑だ、って思ってても、説得力に欠ける。十分発散させてるではないか、欲望を発散しておいてよく言うわ、と。

 

浅薄な見方と思われてしかるべきだけど、それってかなりの問題なんじゃないのか、と思う。

 

結局、本当の屑っていうのは、誰からも愛されていなくて、ましてや性行為なんて望むべくもなくて、ゆえにそいつは社会とこれでもかというくらい接点がもてないんじゃないか。だから欲望を発散できず、学習性無力感に陥り、そこから逃れることもできない。そして今求められているのは、少なくともオレによって求められているのは、そういう屑を扱っている本で、この簡単なことをなんで書かないのかと思って自分でちょっと考えて見たけど、そうなると物語にならないんだな。

何にも接点を持っていない人間の話は非常に書きにくい。

物事には入り口と出口を備えなくてはならない、みたいなことを村上春樹が「1973年のピンボール」で確か書いていたけど、そういう力なき屑には「出入り口」の設置のしようがないんだな。無理やり設置しようとしたらそれはあまりに都合のいい話になるし。

 

それでも「力のある屑」よりも「力なき屑」の話が見たい。

 

 

 

 

「虫眼とアニ眼」   養老孟司・宮崎駿   

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養老孟司宮崎駿の対談本。フィクションじゃねーけども。

 

 

 

 

養老も宮崎も、二人とも自然に触れている。人間関係から自由な、「自然を見る眼」を持っている。

自分たちの世代は、テレビもインターネットもスマホもあって、「人間や人工物や人間関係に対する眼」ばかり磨いてきた。

 

「若い人たちがおそろしくやさしくて 傷つきやすく おそろしく不器用で グズで いい子なのだ」

という宮崎駿の言葉

やさしいかどうかは抜きにして、自分はこれに当てはまっているなと思う。

「人間関係の眼」を大事にすると、そう思考/志向しがちになる。

 

それ以外の、虫を見るような「自然への眼」が必要なんだろう。

 

自然の中に「差異」がたくさんあるのに、いつのまにか「差異」を人間関係の中で発見するようになってしまった。

 

人間・他人にしか興味が向いていない。だから狭い価値観しか形成できないんだ、ということを二人はしきりに言っている。その通りだと思う。

 

「思考の整理学」で、たしか「一つでは多すぎる」という面白いことが言われていた。

一つのことを選択すると、そればかりになってしまって、感覚的には「多くて鬱陶しい」となる。

 

人間だけに興味を持っても、多くて鬱陶しい。

より多くの興味を持つことで、考えることはより少なくできるということが、実際はある

 

アドラーは、全ての苦しみは人間関係の苦しみだ、と言ったけども、もしかしたらそういう風に人間関係しか見れない眼に問題がすでにあるのかもしれない。

自分はたぶん二人にとって最も批判される、唾棄すべき「脳化」人間で、人間や人工物にしか興味を持っていない。

ただ、社会的にそういう人が増えると、人間嫌いだけど他人に狂おしいほど興味や関心を持っている、という現象起こる。

宮崎は、人間嫌いな人ばかりになった、という趣旨の発言をしてるけど、本当は興味を持ちすぎたがゆえに、敏感になりすぎて他人が鬱陶しくなっている人が大半ではないかと思う。

 

人間以外を敬うことで、人間の呪縛から逃れて自由になりえる、という考え。自然や、人間を抜いたもの、に対する興味。

そういうものが思考の抜け道になりうる。

 

 

 

「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」 押見修造  

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吃音の高校生の女の子の話。

 

押見修造はうまいね。絵も話も。

 

 

吃音のつらさは自分にはわからないが、自分の醜態を人に見せなくてはならない恐怖はわかる。

 

例えば自分にとって、作業は恐怖だ。

 

仕事は「作業的な何か」の塊だ。だから自分は仕事が怖くてたまらない。

何かしらの作業が人と比べてうまくできないのを実感するときの自尊が削られていくのも怖いが、それを実感して妙に職場の人に謙ったり、卑屈になっていくのも怖いし、人から自分の愚鈍さや頭の使えなさを叱責されたりバカにされるのも怖い。

 

志乃ちゃんが人前でしゃべるときの怖さは、自分が人前で作業をやる怖さに似ているんだと思う。

 

 

 

 

 

『でも追いかけてくる 私が追いかけてくる

 

私をバカにしてるのは 私を笑ってるのは

 

私を恥ずかしいと思ってるのは

 

全部私だから』

 

これは本作の中で最も注目に値する、受け取るべき一文だと思った。

 

追いかけてくる自己と逃げる自己。自分の中で勝手な逃走劇を繰り広げるのが高校生だ、と信じたい。

 

前回の「ちーちゃんはちょっと足りない」のナツのように、自己を許しがたいものとしている状態で、自己言及を続けても、泥沼化しやすい。

自己を許容できない状態での自己言及にゴールがないのは、自意識がどこまでも自分を追い詰め、そして逃げていくからだろう。志乃ちゃんはナツほど自己言及はしていないけども。

 

確かに、ひどいことを平気で言う他人は存在する。

だが、そういった嫌な存在や言葉を心の中でナイフのようにちらつかせ、いつまでも自分を脅かしているのは他ならぬ自分自身なのだ。

全部私なのだ。

 

 

本作では最後に志乃ちゃんが

 

『大島志乃だ これからも・・・これがずっと私なんだ』

 

という幸福な自己肯定の状況に至るが、これは唐突すぎる感があるように思える。

印象的な良いシーンではあるけども。

無論、自分を肯定するのはゴールだ。

ただ、生きていくうえでの基本的なことが苦手な場合、そのゴールに到達するのが難しい。「ありのまま」でいられるわけではない。

 

しかし、自己を受け入れていない状態で自己言及を続けても、自分が追いかけてくるだけ、というのを、フィクションの中で言ってくれるのはありがたい。

 

こういうのがもっとたくさんあれば、自己言及をしそうになるとき、フィクションを読んで時間稼ぎができるからいい。

 

志乃ちゃんに、あの素晴らしい愛をもう一度 を歌わせてるのいいな

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ちーちゃんはちょっと足りない」 阿部共実 

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阿部共実が天才だと思う理由を全て書こうとしたら、きっと俺は老人になってしまう。それくらい時間がかかるから、「ちーちゃんはちょっと足りない」だけにとどめよう。

 

このマンガは「このマンガがすごい2015」オンナ編で1位だけど、一般受けはしないだろう思う。暗いし。

ただ、自分は名作とか傑作というのは、見た後に自分の考えを述べたくなるようなものだと思っているし、その意味では名作だ。

そして本当に「すごい」し、マンガはもうこんなところまで描けちゃうんだ、という感動がある。小説が、読者の「切実な辛さ」にちゃんと答えずに、チンタラとスタバで格好つけて読むような、根源的にフィクションを必要としていない層を相手している間に、マンガはもうこんなところまできてしまったぞ、という感じ。

 

 

 

内容に踏み込みすぎて紹介のようになっても意味がないから総論みたいに書く。

 

 

 

 

 

 この話はちょっと頭が足りない女子中学生【ちーちゃん】が、友達の女の子【ナツ】【旭ちゃん】たちと一緒に、日々を楽しく過ごすドタバタコメディ!!!

みたいな話だと思ってた。

 

 

全然違うね。やられた。

ちーちゃんはちょっと「足りない」って、頭のことなんだ、と思って読んで、見事に裏切られた。

まどマギみたいに、かわいらしい絵で、とんでもなく深いことをやってくる。

 

 

 

 

自分を含め、多くの人は、青春の後悔を見ていたいんじゃないかと思う。

えぐって、膿を出してほしいという思いがある。

この物語は、というか阿部共実は、そうした人を思う存分斬ってくれる

 

 

 

 

この物語の要点は 他者 と 考えるバカ

 

だと思った。

 

「何者にもなれないこと」と、「何者になるかを決められないうちに、他者からどんどん何者かの烙印を押されてしまうことの鬱陶しさや怖さ」、他者や未来が遠くに行ってしまうような感じ。

 

「他者」は「他者」として生きているのに、「ナツ」は「ナツ」ではなく、「何者でもない」ものとしてしか生きられない。

いつも何かが欲しくて、何かになりたいのに、出てくる言葉は、その場を取り繕う、曖昧な言葉でしかない。他人の顔をうかがい続ける。

 

 『何か足りないものはないの?

 

怖いものはないの?

 

嫉妬するものはないの?

 

なんでみんな不満そうな顔すらしないの

 

そんなのおかしいよ

 

せこいよみんな』

 

自分だって、はじけるような何かを追い求めたい。だけど、自意識という罠にかかって自縄自縛の青春を送るナツには、何もかもが遠い。

大人にも共通する不安で不満な感情の中に出てくる、せこいよ、という言葉の年齢相応のかわいらしさと悲痛さよ。

 

 

『こうやってふつふつと不満も嫌らしいことも考えてるくせに一切主張できずに黙ってて

 

私は 変化することが怖くて 衝突することが怖くて 消失することが怖くて 

 

 その場をいい加減にやりすごして誰にも害を与えることすらなくあたりさわりなく生きて

 

 それがいい人っぽく見えてるだけで

 

私は何もしない ただの静かなクズだ』

 

ただただ突き刺さる。

 

自分を脅かす他者が怖くて、自分を保存することだけに四苦八苦して、自分を高く放ったり、すてっぱちになることができない。この全てをこのままに保存しておきたい、変わるのを拒否したいという感情はとてもよくわかる。

なんでみんなそんな変わっていくんだよ、素早く適応していくんだよ。

ちょっと待ってくれよ、追いつけねぇよ、置いて行かないでくれよ。という叫び。

 

いい人っぽく見えてしまっていること、がさらに自分の自由を奪う、ということもあるだろう。

 

そして自分が嫌になっているのだが、その声は誰にも響いていない。

 

自分を変えてくれるもの、何者にもなれない自分を何者かにしてくれるもの。

それはナツにとってリボンなのだが、このリボンは最後までプラスに働くことはない。リボンという女の子らしいかわいらしいアイテムと、深刻な闇の対比が素晴らしい。

そして、リボンを見せようとするシーンの、ちょっとしたボタンのかけ違えによる間の悪さと、深刻な闇に落ちていくナツの描写が、めちゃくちゃうまいんだこれが。

 

 

『未来が狭いよ』というナツの言葉。

初めて出会う深刻な憂鬱や不安の感情を、本当にうまく切り取っている。

やることなすこと最低な方へいって、常に弁解しなければいけない立場に回ってしまう。ヒリヒリして息苦しい。

だけどなんでこんなに見ていたいのか。

それは、つまるところ、自分を含め多くの人は、自分の過去を後悔させるようなものを見ていたいんじゃないか、ということだ。

 

ナツにとって、ちーちゃんは一緒にいて自分を脅かさない存在で、確実な味方だからこそ、それだけじゃ「足りない」。欲しいのは旭ちゃんたちだ。

自分を傷つけてくるものには恐怖し、傷つけてこないものは見下している。 

 

同じ「足りない」ちーちゃんはバカだ。ただ、考えてないバカだから突破できる。ナツと違ってそれを外に向かって言えている。

 

『いっつもちーだけイジワルする なんで! わぁーー!』(スーパーにて)

 

『もっともっともっと いっぱいいっぱいほしい ちーにはなにもないなんで!』

(二度目だけど、盗んだことがばれたシーン)

 

一方ナツの場合、繰り返しになるけどその叫びは最後まで外には向かうことはない。

あれほど内面に溜め込んでいるのに、苦しみながらも自己韜晦を続けてしまう。

だがナツも決して頭がいいというわけではない。

 

考えないバカが救われて、自意識を抱えて余計なことを考えているバカは救われることがない。

 

『私も旭ちゃんや志恵ちゃんやちーちゃんみたいに大切なことを大声で叫びたいよ』

 

ナツは本気で思っている。そう思っても、消え入りそうな声で「ちーちゃん」と連呼することしかできない。わかる。というか後半は本当にため息が出るくらいすごい。

静かな叫びと報われなさのラッシュだ

 

『私がこんなことしたら気持ち悪いよね』

 

と思って、せっかくちーちゃんが自分に駆け寄ってきたのに、ナツは抱きしめることもできない。むきだしの感情を表現する若さ、勇気、傲慢さを、ナツは中学生にして失ってしまっている。この表現できるかできないかの差が、自己を温存してしまうかどうかの差が、同じ足りないもの同士でも不幸になるかどうかを決定的に分けているんだと思う。外に出さなきゃ伝わらない、どんだけ罪悪感で苦しんでいても、劣等感で心が悲鳴をあげていても、外に出さないかぎり何にもならないという残酷な事実を突きつけてくる。

しかし、考えてここにたどり着くのは相当厄介で、「考えてしまうバカ」であるナツは茨の道を歩くことになる。

 

他人に気を使うけど、気にしすぎた結果それが外部にうまい具合に出ることはなくて、一人で勝手に苦しんでいく様を、ここまでうまく描いているマンガはそうそうない。

苦しみだけは本物なのに、それをうまく伝える術がないから、自分に言い訳をして、ちょっとした悪事に手を染めて、それがばれやしないかと怯えながら日々を過ごす。

 

ちーちゃんは何者かになることを考えていない。自分以外の何者にもなれないことを、まるで感覚的に知っているようだ。

だから、ガチャガチャをやっても『かわいい』と満足することができる。

そしてこの『かわいい』というシーンは本当にかわいい。

大人用の靴のサイズがあわなくて泣いてしまっても、キッズサイズの靴でも満足できる。

「足りない」が、足ることを知っている。

 

ナツはリボンを捨てたけど、ちーちゃんならそんなことはしない、自分がいいと思ったものは、ボロボロになるまで使うだろう。

 ではナツはちーちゃんを真似するべきなのかというと残念ながら一度考えてしまったバカは、考えないバカに戻れないだろう。

それは、小学生の時に明るかったハナタレ小僧が、思春期になって急に暗くなって、そのままの状態で戻らずに生きていく現象に似ている。

ナツはちーちゃんのようにはもうなれない。ナツとして、「自分という存在」を引き受けて生きなければ、「何者でもない」存在として生きることになってしまうだろう。

 

自己を保存して、ケースにいれて、「自分」として外気に触れること(外部に表現すること)を保留し続けていては、きっとどこへも行くことができない。そういう若さゆえの恐怖や絶望が、いつかは懐かしくなるのだろうか。

その時ナツは自分という存在の苦痛やどうしようもなさを引き受けているだろうか。

 

考え続けてしまって青春を無駄にしたすべての人へ。