「虫眼とアニ眼」   養老孟司・宮崎駿   

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養老孟司宮崎駿の対談本。フィクションじゃねーけども。

 

 

 

 

養老も宮崎も、二人とも自然に触れている。人間関係から自由な、「自然を見る眼」を持っている。

自分たちの世代は、テレビもインターネットもスマホもあって、「人間や人工物や人間関係に対する眼」ばかり磨いてきた。

 

「若い人たちがおそろしくやさしくて 傷つきやすく おそろしく不器用で グズで いい子なのだ」

という宮崎駿の言葉

やさしいかどうかは抜きにして、自分はこれに当てはまっているなと思う。

「人間関係の眼」を大事にすると、そう思考/志向しがちになる。

 

それ以外の、虫を見るような「自然への眼」が必要なんだろう。

 

自然の中に「差異」がたくさんあるのに、いつのまにか「差異」を人間関係の中で発見するようになってしまった。

 

人間・他人にしか興味が向いていない。だから狭い価値観しか形成できないんだ、ということを二人はしきりに言っている。その通りだと思う。

 

「思考の整理学」で、たしか「一つでは多すぎる」という面白いことが言われていた。

一つのことを選択すると、そればかりになってしまって、感覚的には「多くて鬱陶しい」となる。

 

人間だけに興味を持っても、多くて鬱陶しい。

より多くの興味を持つことで、考えることはより少なくできるということが、実際はある

 

アドラーは、全ての苦しみは人間関係の苦しみだ、と言ったけども、もしかしたらそういう風に人間関係しか見れない眼に問題がすでにあるのかもしれない。

自分はたぶん二人にとって最も批判される、唾棄すべき「脳化」人間で、人間や人工物にしか興味を持っていない。

ただ、社会的にそういう人が増えると、人間嫌いだけど他人に狂おしいほど興味や関心を持っている、という現象起こる。

宮崎は、人間嫌いな人ばかりになった、という趣旨の発言をしてるけど、本当は興味を持ちすぎたがゆえに、敏感になりすぎて他人が鬱陶しくなっている人が大半ではないかと思う。

 

人間以外を敬うことで、人間の呪縛から逃れて自由になりえる、という考え。自然や、人間を抜いたもの、に対する興味。

そういうものが思考の抜け道になりうる。