太宰治 「女生徒」

太宰治の短編集。全ての短編が、女性の視点から描かれている。
太宰の作品は、人間失格、斜陽、走れメロス、という有名どころしか読んでいなかった。
今回、月がきれい、というアニメで言及されていたから、読んでみることとした。

すごいと思った。
まず、純粋に面白い。今読んでも全然通用する設定の面白さがある。例えば、「恥」では、ある小説家の狂信的なファンが、自意識過剰により自分の住所が作者にバレてしまったと思っている。また、「おさん」は、不倫した夫が、不倫旅行中に心中し、その死体を妻が引き取りに行くときの回想だ。
つぎに、やはり、心情描写が的確で、ハッとさせる。
表題作の「女生徒」の、青春の悩みははしかみたいなものだが、はしかで死ぬ人もいるではないか、のようなところ。長いから引用はしないが、後半の主人公のたたみかけるような述懐は凄みを感じさせる。
最後に、女性の、特にまだ完全に大人になっていない女性の、かわいらしい言動を描くのがうまい。
あえて助詞を抜いたりしているんだろうか。
あー、やっぱ太宰ってただナヨナヨしてるだけじゃなくてすごい人だったんだな、と実感。

かけがえのない日常 キルミーベイベーについて

キルミーベイベーというアニメを今更ながら全部見た。
圧倒的に面白いというわけではない。
作画がすごいというわけでもない。
だけど、良いと言いたい何かがある。

以下の文章は、
「オススメアニメスレで必ずキルミーベイベーが入ってるんだが」というスレでみつけた、二分割にされたレス(原文)であるが、このレスで、キルミーベイベーの良さがほとんど説明されている。

“俺はキルミーを名作だと思ってるけど
キルミーがつまらないという意見には完全に同意する。
日常系アニメは数あれど、こんなにつまらない作品は初めて見たと俺も最初は思った。
メインキャラが3人という異常に少ない登場人物。高校という使い古された舞台。
ガキがダベっているのをそのまま流したようなストーリー。どう見てもつまらなかった。
OPEDが面白いだけのアニメだと思った。
だが何話か見ていくうちに何か心に引っかかるものを感じた。
やすなは毎回ソーニャにちょっかいを出してはシバかれる。それでも懲りずにちょっかいを出し続ける。
最初はやすなはうざいと思っていた俺だが、
全くメゲずにいつもひとりぼっちのソーニャを構うやすなを見ているうちに、
俺はやすなは何と優しいのかと思うと同時にソーニャはひどいなと思うようになった
しかし、最初こそ邪険に扱うものの何だかんだで毎回やすなと一緒に遊んでしまうソーニャ。
俺はそのソーニャの不器用さに気づいて嬉しくなった。ソーニャは不器用なだけ本当は優しい女の子なんだと。
だがそれでもキルミーは相変わらずつまらなかった。
つまらなさに慣れたとはいえ、キルミーは当初のまま、途中から面白くなったりはしていなかった。
そして最終回を迎えた。 “

“最終回で組織からの指令を受けて出かけて行こうとするソーニャにやすなはこう言った。
「殺し屋なんてやってちゃダメだよ。いつか酷い目にあっちゃうよ。
 そしたら、私、ソーニャちゃんと遊べなくなっちゃうよ」
その言葉を聞いたソーニャは出かけるのやめて、夕暮れの中をやすなと一緒に帰っていった。
そうしてキルミーは終わった。
俺はふと考えた。
ソーニャとやすなは一緒に帰っていったが、もしかしたら次の日の教室にソーニャは居ないかもしれないと。
誰もいない机と椅子の隣の席にやすなは座っているのかもしれないと。
そう思った時、あのつまらないだけの日常のシーンが、急に黄金のような輝きを放つのを感じた。
俺はやっとキルミーという作品に込められたメッセージを知った。
あの、つまらない、くだらない、何の変哲もない日常、じゃれあいがどれほどかけがえの無い時間だったか。
あの他愛もないやりとりがどれほそ素晴らしい日々であったか。
あの当たり前の日常がどれほど儚いものであったか。
当たり前の日常、だがそれはかけがえの無いの価値を持ち、
そして何の前触れなくあっさりと思わってしまうような限られた、儚いものである。
それこそがキルミーに込められたメッセージだった。
限られた日々を分かち合ったやすなとソーニャ。
決して見返りを求めないやすなの純粋な友情。それを拒みつつもいつしか不器用に応えたソーニャ。
その二人の友情に気づいて俺の心は震えた。
二人はあの限れた退屈極まりない黄金の日々を全力で謳歌していたのだ。
折しも二人は高校生だ。青春時代だ。青春もまた短く儚い。
キルミーは視聴者にこう語りかけている。
当たり前と思っている日常は決して当たり前のものではない。いつまでも続く日常などない。
だからこそ、その日々を全力で生きているか?
かけがえの無い友人とともに毎日を楽しんでいるか?
そうやって過ごした何でもない毎日は、やがて何よりも眩しい思い出になる、と。
近年、これほど胸を打たれた作品は他になかった。“


殺し屋ソーニャが、ギャグでなくなってしまい、
失っていた凶暴性を取り戻すとき、或いはそれにやすなが真剣に気づいたとき、日常が壊れ、物語が終わる。
日常は、日常から抜けてしまったときに、初めてその良さを表す。
キルミーベイベーは最後にその予感を感じさせるから、一気に切なさを帯びる。
赤﨑千夏のやすなの声も素晴らしかった。

輝きへと続く道 

f:id:mangaeigashousetsu:20170304121432j:plain2月25日と26日に、Aqoursのファーストライブがあって、友人と参戦した。

1日目は見事にチケットがあたり、横浜アリーナへ。

2日目は池袋のライブビューイング(LV)へ。

 

本当に最高だった。

見たときは見たときで普通に感動したんだけど、時が立つと、ああ、あの歌のとき盛り上がったな、とか思い出す。

例えば、13話の未来チケット前の劇を再現するとき、及びその後のあんちゃんの言葉とか。

もちろん、りきゃこのピアノとか。

夜空は何でも知ってるの、のときのしゅかしゅーのダンスとか。

 

 

1日目の現地で「青空jumping heart」の演奏が始まったときの爆発感がすごすぎて、声を上げるのに必死で、ステージをよく見れなかった。俺は馬鹿だから二日目も同じ過ちをして、学年ごとにこっちに振り返る出だしのとき、9人がどんな顔をしていたか、はっきり覚えていない。でもきっと嬉しそうな顔をしていたのだろうから、よし。

 

ちょっと話がずれるけど、個人的には、現実は「静的な美しさ」の点でアニメに勝てないと思う。

だから、すごい冷徹な言い方をしてしまえば、(声優の)μ‘sもAqoursも、アニメに勝ててない。勝つって何だよという話だけど、例えば、μ’sの場合だと、映画の「サニデ」のシーンに、声優9人の歌と踊り「だけ」では、対抗し得ない。


サニデの映画シーンは、本当に完璧だ。自分が見た映画の中で最も感動するシーンのひとつだ。

美しく、整っている感動。


でも、(声優の)μ‘sもAqoursも、ラブライバーという強力な軍団を持っている。

それは、アニメでは描ききれない。こんな大声で叫び散らす輩を描いたら、作品の中で言及が必要なくらいのノイズとなってしまう。

静的ではないけれど、整ってないけれど、熱すぎる感動が、動的な感動がある。

 

μ‘sのファイナルもLVだったし、スクフェス感謝祭も、デカフェスの画面に向けての応援だったから、実際のライブの声を自分は聞いたことがなかった

やっと、満員の横浜アリーナラブライバーの声援を聞いた。

やっと追いついた。

μ'sも結局はアニメ放送終了後の後追いだったから、このAqoursのファーストライブは、リアルタイムで追いつけた初めてのライブだった。


けたたましい叫び声の空間の中にいて、ああ、ラブライブが好きで本当によかった、と思った。

もちろんAqoursの歌も、踊りも見たかったけど、このノイズも絶対に聞きたかった。

 

この、祝福のノイズを。

 

普通のアイドルなら、俺は応援しない。

 

だが、このうるさすぎる愛のあるノイズが、彼女たちをアニメの世界へとリンクさせる。


アニメにある、カットの美しさや、自由な視点の美しさに、怒涛の勢いのノイズで対抗する。

 

彼女たちをアニメの世界と肉薄しうる存在に変えていく。

 

だから追いかけたい。

 

 

 

サイリウム振って応援するの本当に楽しかった。

最高だったけど、そのよさを文章で伝えるのは非常に難しいため、

あとはりきゃこのピアノのことだけを書く。

 

言いたいのは、

りきゃこすごすぎる、ということ。そして、ラブライバーが熱すぎる。最高だ。

 

想いよひとつになれ」でりきゃこがピアノを演奏したんだけど、

もう本当に、緊張している様子が伝わってくるんだよね。

でも、嫌なことをやる感じは当然なくて、絶好のチャンスでバッターボックスに向かう高校球児みたいな感じで。

失敗はできない、このステージを成功させたい、っていう。

 

アニメ版では、りきゃこが演じる梨子ちゃんは、「想いよひとつになれ」に、ピアノのコンサートのため参加できていないため、8人でのライブだった。

だから、このライブでどうなるんだろう、と思った。もしかしたらりきゃこが梨子ちゃんのようにピアノ演奏するのか、と思ったら、本当にそうだった。

会場のどよめきと歓声をうけて、りきゃこはピアノの席に座る。そして、スクリーンには演奏をするりきゃこがリアルタイムで映る。

1日目、立派に演奏をしきって、しゅかしゅーに「おかえり」と言われ、会場はサクラピンク(サイリウムの色)に包まれた。

 

これだけでも大満足だったんだけど、

さらに深い感動が2日目に起こった。

 

想いよひとつになれ」の演奏になり、緊張はあるものの、1日目よりも割りとリラックスした感じで座るりきゃこ。

 

しかし、チカちゃんの

想いよひとつになれ~このときをまっていた~」

の1小節が終わらないうちに、ピアノの外した音が聞こえた気がした。

うん?と思うと、そのあとのピアノだけの演奏のところで、完全に不協和音になり、演奏が止まってしまった。

マジか!!!!と「ああああああああ」と驚きの声がLVの中でもあがる。現地はどんな感じだったのだろう。

 

そして、りきゃこは泣いてしまうんですね。過呼吸みたいになってしまっていたんです。

LVだとそれが本当によく映ってしまっていて、見ていて辛かった。こっちまで泣けた。

かけよるメンバー。観客はりきゃこの名前を叫んで、会場はサクラピンク一色になった。

鳴り止まないりきゃこコールの中、りきゃこはもう一度気を落ち着かせ、座りなおします。

これ本当にすごいと思う、涙は出ていたかもしれないけど、ぴしっとしていた感じだった。

とてつもない緊張感があった。

もうこのときから俺は涙が止まらなかった。

 

そんで、もう一回演奏を最初からやりなおします。

 

「おもいよひとつになれ~このときをまっていた~」

 

 ピアノの音が鳴る。

 

あんちゃんの出だしのソロ直後にさっき躓いた部分が来ます。

 

スクリーンは非情にも、いやそうあるべきだけれども、りきゃこを映し続けます。

 

ポンポンポン・・と我々が知っているリズムを、しっかりと紡いでいく。

 

音を正確に刻むごとに、歓声が高まる。

 

そして、躓いた部分を越え、ドラム等他の音が入っていく部分までたどりつき、歓喜の渦に会場が包まれた。

そこに到着する直前に、「よっしゃああ!!!」「うおおおおおお!!!」とか、「よし!!」とか、オレもだけど、自然と叫んでしまう。

 

その後も演奏は続き、鳴り止まない歓声。

 

最後のピアノソロで、スクリーンに映るりきゃこが、安心した表情で、演奏をする。

 

その表情が喜びに変わるにつれて、会場も「うおおおお」とか騒がしくなるのがまた気分がいい。泣ける。

 

そして、最後の一音の鍵盤を、しっかりと、叩いた。

 

達成感をかみ締めるようなりきゃこの表情。

 

一人の人間が、困難を乗り越える瞬間を見た。本当にいい物を見た。

こんなすごいことを、ピアノを始めたばかりの年下の女の子がやったのか、すごすぎる。

 

最後のしゅかしゅーの「おかえり」は、本当に労いの響きがあった。


あんちゃんの、「これがライブってことじゃん!!」みたいなフォローにも泣けたし。

 

ああ、人生ってこんなに純粋に他者を応援する瞬間があったんだ、と自分自身に驚いてしまった。これからの人生にまで光が射したような、そんな瞬間だった。

 

後から思ったけど、りきゃこがミスった後に演奏を止めたのすごい判断だと思う。

りきゃこのことを思ったら、ミスを無理やり続けるより、最初からやり直したほうが良いと思ったのだろう。信頼がなきゃできない。スタッフを含め本当にすげ。

 

秋から2期も決定した。こりゃ3期あるかもしれん。

 

ファーストライブでAqoursはしっかりと産声をあげた。

μ’sが作った道の先で、これからAqoursはどんな輝きをみせてくれるのか。楽しみで仕方がない。

(終)

ぼくめっちゃ君の名は。 好きなんすよ

 4回も見てしまっている。

見る度に、頭の中に涼しい風を巻き起こしてくれる感じがある。涼しさは心地よい寂しさと似ている。その感じを文章にするのが難しくてもどかしい。


君の名は。で流れた4曲は、物語と分けがたく繋がっている。

脳だけで忘れないように、形を変えて物語を伝えてくる、ような気がする。だから良い。曲が流れるたびに物語を思い出せる。

僕は劇中の4曲を聴くとき、音楽を聴こう、という意識より、あの物語の感覚に浸ろう、と思っている。

 

好きな順に並べると、なんでもないや、夢灯籠、スパークル、前前前世 で

なんだか前前前世ばかりが持て囃されている気がするが、僕はなんでもないやがダントツで好きだ。

その理由は、この曲が最も君の名は。の感覚を表現していると思うからだ。

君の名は。の感覚は、寂しさ だ。

 

「砂が崩れた後に、しかし一つだけ消えない塊がある。これは寂しさだと、俺は知る。その瞬間に俺には分かる。この先の俺に残るのは、この感情だけなのだと。

(中略)自分が忘れたという現象そのものも、俺はもうすぐ忘れてしまう。」

(小説 君の名は。207P)

 

僕は上記の部分に君の名は。のエッセンスが凝縮されていると信じる。

 

エンターテイメント性がどうとか言われているし、新海誠自身もそこを重視したと言っているが、僕はやはりこの映画から寂しさを感じる。ただ、その寂しさの質が、秒速のころと比べて、受け容れやすい、心地よいものになったんだと思う。

そして、綺麗な絵であるほど、寂しさは伝わってくる。美しく、澄んでいる寂しさだ。

個人的には、「秒速」とどちらが寂しさが上かと言ったら、君の名は。のほうが上だと感じた。

たいていの物語は寂しさに救いが用意されていて、君の名は。も最後に二人が会えるという点では、救いではある。秒速は最後までそれを用意せずに終わらせた点で異質であり、なんだかそれが新海誠の持ち味のようになった。

それでも個人的に 君の名は。 に寂しさの軍配があがる理由は、記憶の欠落があるからだ。

 

君の名は。で二人が最後に会っても、タキとミツハは二人とも互いについての記憶をなくしている。

最も濃密に思っていたときの記憶がないまま出会うことと、その記憶があるまま出会えないこととどちらが寂しいのか。

もちろん君の名は。は、互いの過ごした日々が、バタフライエフェクトシュタインズゲートのように、完全に空っぽになるというわけではない。だから、朝目覚めたときに涙が出ることがあるし、会ったときに涙がこぼれる。ただ、その涙の理由は、SF的な世界の修正作用により、永遠に知ることができない。知ってしまったらタイムパラドックスがおきてしまう。

この人は自分がずっと探してた人で、どこかで会ったことがあって、それはとても重要なことで、忘れられるはずがないのだけれど、なぜか忘れてしまっている。

自分でも理由がよくわからない涙を流しながら、二人はそう思ったはずだ。

再会の喜びだけじゃないはずだ、あの涙は。

経験は記憶として蓄積されない限り無に帰してしまうという、記憶の限界についての寂しさの表出でもあるはず。もちろんそれを明確に二人は自覚できないんだけども。

これから二人はまた始めましての関係からはじめればいいのだが、それでも言い難い寂しさがある。

 

「なんでもないや」の曲名・歌詞・曲調は、戻らない記憶を必死で手繰り寄せて、なお戻らない、という感覚が出てて非常によい。

澄んだ夜空に響いていくような寂しさがメロディに宿っている。

ここからは急にオタクくさくなるんだけど、おそらくタキとミツハがまた関係を築いて、夜道を歩いているときに、ふと、二人がこの、記憶を欠いた感情に思いを馳せてしまうんです。そのときの歌なんです、なんでもないや は。

記憶に基づかない感情をいくら説明しようとしても、うまくしゃべれないから「なんでもないや」と濁す。気にしていないわけではなく、言及できないから「なんでもないや」なのだろう。

 

多くの人は寂しさを抱えている。見つけた瞬間に泣いてしまうような何かを探している。

君の名は。はそれにちゃんと応えたんだろう。変に哲学が入らないから、受け止めたい人がちゃんと受け止められた。

素敵やね。



 

 

 

 

 

映画 何者  2ちゃんねる的・芝居・観客

ネタバレしているので注意


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働くこと。何者かになること。



”けれど考えてみれば、ぼくはぼく自身のもとから消え去ることはできない。どんなに遠いところへ行っても、ぼくはぼくを引きずっていくしかないのだ。”

(原田宗典「何者でもない」)

何者というタイトルと、役者と、人生について、映画を見ながらこの本を思い出した。

こう引用すると、ゲスの極み乙女の、「私以外私じゃないの」って端的にまとめていてすごいと思う。


snsという病。
snsは、本来気づくべきではなかった、「人間は充実している様子を他人に見せようとする」という事実をつきつけてくる。
そこで、心に闇が生まれる。

この闇に任せていると、他人を批判したり、他人の動向を気にすることに必死になって、自分を見失う。2ちゃん的になる。そしてこの2ちゃん的な認識は相当支配的になっている。



後半で、ミヅキがが、コウタロウのことを、「自分の人生にドラマを見つけて、その主人公になれる人」と言うシーンがある。

ここはかなり示唆的だと思う。

人生の中で起こるドラマは、テレビドラマのようにわかりやすくもなければ、観客もいないし、僕らは「一人芝居」を続けなければいけない。

でもこれを「一人芝居」ととらえるのは、あまりにもテレビ的、メディア的、映像的な思考に毒されたもので、もっと自分の人生に沈潜すれば、「観客」はいらない。

終盤、タクトは自らが設定した「観客」を捨てて、ミヅキ一人のために「脳内一人芝居」の舞台を降りる。

自分が勝手に脳内で想定した他人や観客よりも、もっと力強くて現実的で親密な思いが、ミヅキから感じたからか。そう考えると、あの演出は見事だった。

この観客は、現代では、2ちゃん的な観察者の価値観を撒き散らす。痛いとか、寒いとか。

めちゃくちゃこっ恥ずかしいことを言えば、この 分散された自分の人生を評価する 何者か を一つに統合して力強くするのが、恋愛感情なのだと思う。映画の内容とだいぶずれたが。そしてタクトがミヅキのもとに走ったのは恋愛感情だけではすまされないのだけれども。

ただ、コウタロウのようにわかりやすいドラマ的なものを追える人間は少ない。

そして、人生に わかりやすいドラマ があると、その人は色々な闇に入り込みにくい、と思う。
(逆に仕事が全然できない、とかの、人生のドラマをすべて破壊してしまうような特性をもつ俺は、闇の中でちゃんと生きててすごいと思う。)

だからドラマを追える、人生の主人公≠何者であるコウタロウは、最後は 何者 であるタクトと一緒にいない。一番壮絶な、2ちゃんがばれるシーンでは、同じく 何者 であるリカが出てくる。

これは完全に俺の好みだけど、ここでタクトとリカが自分の闇を完璧にさらけ出してめちゃくちゃなセックスをはじめたら、死ぬほど興奮するだろうし、人間、って感じで泣いたかもしれない。

それがなくても、この映画はかなり面白かった。
邦画にはやっぱりこういう地味かつ本質的な内容がぴったりだ。
アニメだと、この雰囲気は出せないと思う。

我々は何かを探していて、何かを待っている。

f:id:mangaeigashousetsu:20160929230406j:plain君の名は、の感想を書きます。

以下、君の名は の 本当の感想(本当に頭に浮かんだことでなんとか文章の体をなしているもの)を書きます。なおネタバレ的なものは普通にしている。





大事なものを探したい。でもそれは、なんなのだろう。
どこかにある気がする。

生きるのには物語が必要な人が一定数いる。少なくとも自分は、物語がないと困る。

そして、君の名は、は、そういう、物語を探している人たちが探していた映画なんだ。

新海誠の背景美術は、そういう僕らの 物語への憧れ(及びそうした気持ちへの賛同) を最大限に引き出してくれる。背景が、心情まで伝えてくる。そしてその美しい背景と、キャッチーだがやはり物語性を有している「あの花」のキャラデザが融合すると、主人公が普通の言葉を喋っても、深い情報量を持って伝わってくるんだな。

そして、新海誠がこだわる絵は一瞬一瞬が印象に残る。見たあとに、鳥居や都心や田舎の絵が心を占有している。ミツハがバスケして揺れる乳とかも占有している。

「ここに行ったことがないけど、何故か知っている気がする。
こんな風景を見たことある気がする。」
美しい絵はそういう気持ちにさせる。
こういう気持ちは、タキとミツハが、「会ったことはないのに知っている人がいる気がする」という思いと見事にリンクしてくる。
だから、物語により深く入り込める。

運命とか、バカにしたいけど、仕事で腐り続ける心だったとしても、何処かでそういうのを信じていたい。
そういう相手の名前を叫びたい気がする。

タキとミツハは日常生活における勝ち組(うんざりする言い方だと、リア充)だ。社交的で、器用に生きられる。
人格が入れ替わって、他人が自分の違いに気づいてくれるということは、他人と変えがたい関係を築いているということ。

日常生活の勝ち組だから、名前で呼び合うこと がいたって自然に行われる。
オタクだとそうはいかない。
宮水さん が精一杯。手に名前を書かれても、宮水さん。
それはそれでいいかもしれない。
最後に名前で呼んだりね。
余談だけど、聲の形の石田は、普段は 西宮 と呼ぶのにここぞという時に名前を呼んだね。

どれほど繋がっていても、忘却はとめることができない。
終盤、名前を忘れながらタキとミツハが互いを思い出そうとするところで、なんだか古典的な(古めかしいということではなく、本当に古文や和歌でありそうな)世界を感じてしまう。
忘却とはこんなにも残酷で、こんなにもやりきれないものなのか。完全に忘れてしまえば、失った悲しさえも忘れてしまう。

あと最初にオープニングがあったのが良かったわい。あれで世界観や雰囲気に一回頭が馴染む。RADWIMPSの歌もいいし。
RADWIMPSが歌いすぎだ、と言う人もいるけど、僕はちょうどいいと思った。
前前前世の疾走感、なんでもないやの喪失感 適材適所という感じで、全く邪魔ではなく、BGMとして完璧だったと思う。
特に なんでもないや 良いね。
今、なんでもないや をネットの歌い手?が歌っているやつを聞きながらこの文章を書いていて(ダサすぎる)、CDを借りるのも吝かではないな、と思っている。(借りろや)

また、絵の良さにかき消されてしまうことが多いけど、タキとミツハの声の演技がめちゃくちゃ良い。これは声優になれるぞ二人とも。
特にミツハ。

絵、音楽、声、これがあわさってるんだもの。
理屈をこねて整合性に疑問を感じる人もいるだろうけど、個人的に見ているときはほぼ気にならなかった。物語に勢いがあったから。というか感情移入していたから。よく考えたらおかしなところはあっても、感情に齟齬はほぼなかった。
ひとつだけあえて苦言を呈するなら、ミツハがタキに会いに東京に行って電車で会えた時、タキの「誰お前」って冷たすぎやしないかい?
初対面の女の子に対して「お前」って。キミくらいにしとけや!!


青春の中で留保していた気持ちに改めて向き合える気がする。
ずっと何かを、誰かを、探している。多くの人がそうなんだろう。
クソみたいな日々の中でも、そういえばそんな気持ちがどこかにある。

僕達は、物語を探して生きている。
物語の入り口を探している、と言ってもいいかもしれない。
この映画は、そういう気持ちに寄り添うものだ。

ps,
すげぇ仕事辞めたい、という気持ちと、君の名はすごい良かった、という気持ちが両立していたり、職場と映画館が同じ世界にあるのすごいな。

The shape of voices

聲の形の簡素な感想です。
全然ネタバレではないけども。
















君に生きるのを手伝ってほしい。
生きるのを手伝ってほしいのは、自分にはないプラスのものをたくさん持っている人ではなく、自分と同じような欠落を抱えた人間だ。
石田も西宮も、自分自身の嫌さを受け入れられない。だけど、だからこそ、互いを受け入れられる。

逆に、上野は自分を肯定していく。自分の肯定や、承認から思考がスタートしている。
それはときに他人を傷つける。
漫画を読んだ時は、上野は嫌な人間だと思ったけど、映画を見ているときは、西宮にとってかなり示唆的な存在だな、と思い直した。
そういう力強い自己受容というのはとても大事だ。
しかし、同じ欠落がないから、石田は上野に惹かれることはない。
それが、上野のような存在の悲哀だろうか。