太宰治 「女生徒」

太宰治の短編集。全ての短編が、女性の視点から描かれている。
太宰の作品は、人間失格、斜陽、走れメロス、という有名どころしか読んでいなかった。
今回、月がきれい、というアニメで言及されていたから、読んでみることとした。

すごいと思った。
まず、純粋に面白い。今読んでも全然通用する設定の面白さがある。例えば、「恥」では、ある小説家の狂信的なファンが、自意識過剰により自分の住所が作者にバレてしまったと思っている。また、「おさん」は、不倫した夫が、不倫旅行中に心中し、その死体を妻が引き取りに行くときの回想だ。
つぎに、やはり、心情描写が的確で、ハッとさせる。
表題作の「女生徒」の、青春の悩みははしかみたいなものだが、はしかで死ぬ人もいるではないか、のようなところ。長いから引用はしないが、後半の主人公のたたみかけるような述懐は凄みを感じさせる。
最後に、女性の、特にまだ完全に大人になっていない女性の、かわいらしい言動を描くのがうまい。
あえて助詞を抜いたりしているんだろうか。
あー、やっぱ太宰ってただナヨナヨしてるだけじゃなくてすごい人だったんだな、と実感。

かけがえのない日常 キルミーベイベーについて

キルミーベイベーというアニメを今更ながら全部見た。
圧倒的に面白いというわけではない。
作画がすごいというわけでもない。
だけど、良いと言いたい何かがある。

以下の文章は、
「オススメアニメスレで必ずキルミーベイベーが入ってるんだが」というスレでみつけた、二分割にされたレス(原文)であるが、このレスで、キルミーベイベーの良さがほとんど説明されている。

“俺はキルミーを名作だと思ってるけど
キルミーがつまらないという意見には完全に同意する。
日常系アニメは数あれど、こんなにつまらない作品は初めて見たと俺も最初は思った。
メインキャラが3人という異常に少ない登場人物。高校という使い古された舞台。
ガキがダベっているのをそのまま流したようなストーリー。どう見てもつまらなかった。
OPEDが面白いだけのアニメだと思った。
だが何話か見ていくうちに何か心に引っかかるものを感じた。
やすなは毎回ソーニャにちょっかいを出してはシバかれる。それでも懲りずにちょっかいを出し続ける。
最初はやすなはうざいと思っていた俺だが、
全くメゲずにいつもひとりぼっちのソーニャを構うやすなを見ているうちに、
俺はやすなは何と優しいのかと思うと同時にソーニャはひどいなと思うようになった
しかし、最初こそ邪険に扱うものの何だかんだで毎回やすなと一緒に遊んでしまうソーニャ。
俺はそのソーニャの不器用さに気づいて嬉しくなった。ソーニャは不器用なだけ本当は優しい女の子なんだと。
だがそれでもキルミーは相変わらずつまらなかった。
つまらなさに慣れたとはいえ、キルミーは当初のまま、途中から面白くなったりはしていなかった。
そして最終回を迎えた。 “

“最終回で組織からの指令を受けて出かけて行こうとするソーニャにやすなはこう言った。
「殺し屋なんてやってちゃダメだよ。いつか酷い目にあっちゃうよ。
 そしたら、私、ソーニャちゃんと遊べなくなっちゃうよ」
その言葉を聞いたソーニャは出かけるのやめて、夕暮れの中をやすなと一緒に帰っていった。
そうしてキルミーは終わった。
俺はふと考えた。
ソーニャとやすなは一緒に帰っていったが、もしかしたら次の日の教室にソーニャは居ないかもしれないと。
誰もいない机と椅子の隣の席にやすなは座っているのかもしれないと。
そう思った時、あのつまらないだけの日常のシーンが、急に黄金のような輝きを放つのを感じた。
俺はやっとキルミーという作品に込められたメッセージを知った。
あの、つまらない、くだらない、何の変哲もない日常、じゃれあいがどれほどかけがえの無い時間だったか。
あの他愛もないやりとりがどれほそ素晴らしい日々であったか。
あの当たり前の日常がどれほど儚いものであったか。
当たり前の日常、だがそれはかけがえの無いの価値を持ち、
そして何の前触れなくあっさりと思わってしまうような限られた、儚いものである。
それこそがキルミーに込められたメッセージだった。
限られた日々を分かち合ったやすなとソーニャ。
決して見返りを求めないやすなの純粋な友情。それを拒みつつもいつしか不器用に応えたソーニャ。
その二人の友情に気づいて俺の心は震えた。
二人はあの限れた退屈極まりない黄金の日々を全力で謳歌していたのだ。
折しも二人は高校生だ。青春時代だ。青春もまた短く儚い。
キルミーは視聴者にこう語りかけている。
当たり前と思っている日常は決して当たり前のものではない。いつまでも続く日常などない。
だからこそ、その日々を全力で生きているか?
かけがえの無い友人とともに毎日を楽しんでいるか?
そうやって過ごした何でもない毎日は、やがて何よりも眩しい思い出になる、と。
近年、これほど胸を打たれた作品は他になかった。“


殺し屋ソーニャが、ギャグでなくなってしまい、
失っていた凶暴性を取り戻すとき、或いはそれにやすなが真剣に気づいたとき、日常が壊れ、物語が終わる。
日常は、日常から抜けてしまったときに、初めてその良さを表す。
キルミーベイベーは最後にその予感を感じさせるから、一気に切なさを帯びる。
赤﨑千夏のやすなの声も素晴らしかった。

映画 何者  2ちゃんねる的・芝居・観客

ネタバレしているので注意


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働くこと。何者かになること。



”けれど考えてみれば、ぼくはぼく自身のもとから消え去ることはできない。どんなに遠いところへ行っても、ぼくはぼくを引きずっていくしかないのだ。”

(原田宗典「何者でもない」)

何者というタイトルと、役者と、人生について、映画を見ながらこの本を思い出した。

こう引用すると、ゲスの極み乙女の、「私以外私じゃないの」って端的にまとめていてすごいと思う。


snsという病。
snsは、本来気づくべきではなかった、「人間は充実している様子を他人に見せようとする」という事実をつきつけてくる。
そこで、心に闇が生まれる。

この闇に任せていると、他人を批判したり、他人の動向を気にすることに必死になって、自分を見失う。2ちゃん的になる。そしてこの2ちゃん的な認識は相当支配的になっている。



後半で、ミヅキがが、コウタロウのことを、「自分の人生にドラマを見つけて、その主人公になれる人」と言うシーンがある。

ここはかなり示唆的だと思う。

人生の中で起こるドラマは、テレビドラマのようにわかりやすくもなければ、観客もいないし、僕らは「一人芝居」を続けなければいけない。

でもこれを「一人芝居」ととらえるのは、あまりにもテレビ的、メディア的、映像的な思考に毒されたもので、もっと自分の人生に沈潜すれば、「観客」はいらない。

終盤、タクトは自らが設定した「観客」を捨てて、ミヅキ一人のために「脳内一人芝居」の舞台を降りる。

自分が勝手に脳内で想定した他人や観客よりも、もっと力強くて現実的で親密な思いが、ミヅキから感じたからか。そう考えると、あの演出は見事だった。

この観客は、現代では、2ちゃん的な観察者の価値観を撒き散らす。痛いとか、寒いとか。

めちゃくちゃこっ恥ずかしいことを言えば、この 分散された自分の人生を評価する 何者か を一つに統合して力強くするのが、恋愛感情なのだと思う。映画の内容とだいぶずれたが。そしてタクトがミヅキのもとに走ったのは恋愛感情だけではすまされないのだけれども。

ただ、コウタロウのようにわかりやすいドラマ的なものを追える人間は少ない。

そして、人生に わかりやすいドラマ があると、その人は色々な闇に入り込みにくい、と思う。
(逆に仕事が全然できない、とかの、人生のドラマをすべて破壊してしまうような特性をもつ俺は、闇の中でちゃんと生きててすごいと思う。)

だからドラマを追える、人生の主人公≠何者であるコウタロウは、最後は 何者 であるタクトと一緒にいない。一番壮絶な、2ちゃんがばれるシーンでは、同じく 何者 であるリカが出てくる。

これは完全に俺の好みだけど、ここでタクトとリカが自分の闇を完璧にさらけ出してめちゃくちゃなセックスをはじめたら、死ぬほど興奮するだろうし、人間、って感じで泣いたかもしれない。

それがなくても、この映画はかなり面白かった。
邦画にはやっぱりこういう地味かつ本質的な内容がぴったりだ。
アニメだと、この雰囲気は出せないと思う。

我々は何かを探していて、何かを待っている。

f:id:mangaeigashousetsu:20160929230406j:plain君の名は、の感想を書きます。

以下、君の名は の 本当の感想(本当に頭に浮かんだことでなんとか文章の体をなしているもの)を書きます。なおネタバレ的なものは普通にしている。





大事なものを探したい。でもそれは、なんなのだろう。
どこかにある気がする。

生きるのには物語が必要な人が一定数いる。少なくとも自分は、物語がないと困る。

そして、君の名は、は、そういう、物語を探している人たちが探していた映画なんだ。

新海誠の背景美術は、そういう僕らの 物語への憧れ(及びそうした気持ちへの賛同) を最大限に引き出してくれる。背景が、心情まで伝えてくる。そしてその美しい背景と、キャッチーだがやはり物語性を有している「あの花」のキャラデザが融合すると、主人公が普通の言葉を喋っても、深い情報量を持って伝わってくるんだな。

そして、新海誠がこだわる絵は一瞬一瞬が印象に残る。見たあとに、鳥居や都心や田舎の絵が心を占有している。ミツハがバスケして揺れる乳とかも占有している。

「ここに行ったことがないけど、何故か知っている気がする。
こんな風景を見たことある気がする。」
美しい絵はそういう気持ちにさせる。
こういう気持ちは、タキとミツハが、「会ったことはないのに知っている人がいる気がする」という思いと見事にリンクしてくる。
だから、物語により深く入り込める。

運命とか、バカにしたいけど、仕事で腐り続ける心だったとしても、何処かでそういうのを信じていたい。
そういう相手の名前を叫びたい気がする。

タキとミツハは日常生活における勝ち組(うんざりする言い方だと、リア充)だ。社交的で、器用に生きられる。
人格が入れ替わって、他人が自分の違いに気づいてくれるということは、他人と変えがたい関係を築いているということ。

日常生活の勝ち組だから、名前で呼び合うこと がいたって自然に行われる。
オタクだとそうはいかない。
宮水さん が精一杯。手に名前を書かれても、宮水さん。
それはそれでいいかもしれない。
最後に名前で呼んだりね。
余談だけど、聲の形の石田は、普段は 西宮 と呼ぶのにここぞという時に名前を呼んだね。

どれほど繋がっていても、忘却はとめることができない。
終盤、名前を忘れながらタキとミツハが互いを思い出そうとするところで、なんだか古典的な(古めかしいということではなく、本当に古文や和歌でありそうな)世界を感じてしまう。
忘却とはこんなにも残酷で、こんなにもやりきれないものなのか。完全に忘れてしまえば、失った悲しさえも忘れてしまう。

あと最初にオープニングがあったのが良かったわい。あれで世界観や雰囲気に一回頭が馴染む。RADWIMPSの歌もいいし。
RADWIMPSが歌いすぎだ、と言う人もいるけど、僕はちょうどいいと思った。
前前前世の疾走感、なんでもないやの喪失感 適材適所という感じで、全く邪魔ではなく、BGMとして完璧だったと思う。
特に なんでもないや 良いね。
今、なんでもないや をネットの歌い手?が歌っているやつを聞きながらこの文章を書いていて(ダサすぎる)、CDを借りるのも吝かではないな、と思っている。(借りろや)

また、絵の良さにかき消されてしまうことが多いけど、タキとミツハの声の演技がめちゃくちゃ良い。これは声優になれるぞ二人とも。
特にミツハ。

絵、音楽、声、これがあわさってるんだもの。
理屈をこねて整合性に疑問を感じる人もいるだろうけど、個人的に見ているときはほぼ気にならなかった。物語に勢いがあったから。というか感情移入していたから。よく考えたらおかしなところはあっても、感情に齟齬はほぼなかった。
ひとつだけあえて苦言を呈するなら、ミツハがタキに会いに東京に行って電車で会えた時、タキの「誰お前」って冷たすぎやしないかい?
初対面の女の子に対して「お前」って。キミくらいにしとけや!!


青春の中で留保していた気持ちに改めて向き合える気がする。
ずっと何かを、誰かを、探している。多くの人がそうなんだろう。
クソみたいな日々の中でも、そういえばそんな気持ちがどこかにある。

僕達は、物語を探して生きている。
物語の入り口を探している、と言ってもいいかもしれない。
この映画は、そういう気持ちに寄り添うものだ。

ps,
すげぇ仕事辞めたい、という気持ちと、君の名はすごい良かった、という気持ちが両立していたり、職場と映画館が同じ世界にあるのすごいな。

The shape of voices

聲の形の簡素な感想です。
全然ネタバレではないけども。
















君に生きるのを手伝ってほしい。
生きるのを手伝ってほしいのは、自分にはないプラスのものをたくさん持っている人ではなく、自分と同じような欠落を抱えた人間だ。
石田も西宮も、自分自身の嫌さを受け入れられない。だけど、だからこそ、互いを受け入れられる。

逆に、上野は自分を肯定していく。自分の肯定や、承認から思考がスタートしている。
それはときに他人を傷つける。
漫画を読んだ時は、上野は嫌な人間だと思ったけど、映画を見ているときは、西宮にとってかなり示唆的な存在だな、と思い直した。
そういう力強い自己受容というのはとても大事だ。
しかし、同じ欠落がないから、石田は上野に惹かれることはない。
それが、上野のような存在の悲哀だろうか。

小説 砕け散るところを見せてあげる 竹宮ゆゆこ

f:id:mangaeigashousetsu:20160919120219j:plain久々に小説の感想を書いてみる。記録しようと思えるほどの小説を最近読んでいなかった。

 

 

いいタイトルだと思う。そして浅野いにおが描いた表紙も、何か心に訴えるものを感じさせる。浅野いにおの漫画はそんな好きじゃないけど、こういう絵はいいなと思う。作者はとらドラの原作の人らしい。読んでから知った。

 

 

 

 

 

(以下、めちゃくちゃネタバレあり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ただ、内容がおしい。

つまらないわけでは決してないけど、素材の割りに深い感動を味わえなかった感じ。

まず、ハリの絶叫についての説明が足りないと思う。

虐待をうけていたから、人に急に体に触られることが怖くて、常軌を逸した絶叫をするのだろうか、あまり納得できない。

この、絶叫は、「砕け散るところ」の核なのかもしれないと思っていたけど、たしか主人公が上記のように推論した程度で終わってしまう。もったいないと思う。

 

 

いきなり周波数が合う。って表現はいい。この一文が、清澄とハリの関係を端的に表している。

っていうか中盤のラブコメ的な部分がこの人が本領を発揮するところだと思う。

 

ラストは、なんでこういう風な構造にしたのか、わからない。

語り手が別だった、ってことはよくあるけど、それをする理由があったのか。

しかも、描き方がずるいと思う。

21pの「で、ここからが本当にオレの話。」と出たら、今までしゃべったのもオレ、と判断せざるを得ない。

清澄の息子と清澄が同じ空間に存在していて、テーブルトークのようにしゃべっているならまだしも、同じ空間に存在していないのだから、今まで「オレ」が語っているのに、「で、ここからが本当にオレの話」で語り手が交代するのは看過できないほどの悪文だと思う。「で、」って、「そして」って意味なんだから。明らかにその前の文章の影響を受けていると普通は思ってしまう。話者が交代しているなら、前の文の影響を受けているような書き方はおかしい。

仮に交代していないのなら、清澄の父親が死んでいるのに父親が会いに来ている。

死んだのではなく、離婚していただけ。(本文の記述にもこれに近いように書いてあったからこっちが正しいのだろうか)

もしそうだったら、最後のほうの数行でそれを説明しているのはあまりにも雑だし、そのことに対する清澄の驚きがないのは不自然だし、事前に清澄が知っていたら、冒頭の「亡き父」という表記はおかしい。

 

どっちにしろ、こんな構造にする理由はないと思う。

 

あと、ハリの父親の件に関して、警察を呼ぶ前に骨を見つけようとするかけに出るのも説得力が乏しい。

見つかって殺されたら終わりなら、その後のこととかよりもまず警察に駆け込むのが優先だろうに。

 

めちゃくちゃ期待していただけに残念だったんだよな。

期待していたから、こんだけ惜しいなと感じてしまう。

虐待と少女(ちょっといかれている少女)というテーマでは、どうしても桜庭一樹の「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」に軍配が上がってしまう。似てるけど、勝ててない、と思ってしまう。

 

あと、帯についてる、「最後の一文云々」っていうの、もうそろそろやめてくれ、と思う。それだけで変にハードルがあがってしまうから

みんなで叶えた物語

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μ‘sのファイナルライブということで,

この前の土曜日に映画館へ行った。

前日の4月1日に東京ドームで行われれたライブの内容を、劇場で楽しむということで、上映時間300分の休憩なし。ラストライブだから本当の解散の様子をライブ内のアニメで見られるのではないかと思い、期待が高まる。

 

まず、チケットを上映4時間前に購入。オールナイトを池袋で見たときと違って、さすがと言うか、席がほぼ埋まっている。サイリウム無しで大丈夫か、と思いつつ館内に入ると、

自分の席の左隣は男子中学生二人組、右隣は普通の、一人で見に来た大人、と言った感じだった。

中学生の会話を盗み聞きすると、昨日東京ドームに実際に行っているらしい。しかも、かなりステージに近い位置で見ていたらしい。すげーな、でも内容をしゃべったら容赦なく手が出るからな。さてはこいつら学校サボったな、いや今は春休みか、などと思いつつ待っていると、スクリーンの様子が変わり始めた。

 

普通の映画とは違い、上映開始の時間までは映画の宣伝なんかはなくて、ライブが始まる前の会場内の様子が映っている。こういうのも感情を盛り上げてくれていい配慮だと思う。

色とりどりのサイリウムを持っている数万人の人々が映っている。館内の人々もサイリウムを取り出し始めて、普通に立ち始めたので、俺も立つことにする。こういう作法がわからないので、俺は終始隣の中学生の行動を真似た。

 

そして、メインステージの画面が明るくなり、アニメ映像が映し出された。

土砂降りのような轟音の歓声が画面から聞こえてくる、花陽がドアップでうつって、何かしゃべっているが、ウオオオオオアアアアアアアアアア!!!!!!!!!!という快哉でかき消される。館内でも「かよちーーーーーん!!!」「はなよおおおおあああああああああああああああ!!!!」という野太い声を出す豪傑のせいで、余計に聞こえない。

 

どうやらアルパカの出産というシーンで、μ‘sメンバー全員が集まっていて、真姫が、「私が手伝ったんだから当然ね」とか言うと、また会場がグアアアアアアアアとかマキャアアアアアアとかの歓声に包まれた。(これ以降歓声は省く)

ライブが今日あるんだ、とかほのかが言って、希が会場の場所どこか教えて、みたいなことをいって、耳を画面に差し出すと、会場の何万人がそろって「東京ドーーーーーーーーーーム!!!!」と言っていた。もちろん館内でも。こういうメタフィクション的なやりとりは面白い。

「ドゥ、ドゥーーーーームですかーーー」とか言って、今までのライブ会場からハートをつないでいくみたいな(説明が難しい)μ‘sメンバーが東京ドームに入り、「僕らのライブ君とのライフ」の前奏が鳴り響き、ついにμ’sの声優陣登場。歓声が爆発した。

最高の演出だ、と思った。文句のつけようがない。客の声もまたいいね。

 

周りを見たらみんなサイリウム持っていた。サイリウムを持たずに突っ立ってて申し訳ない。既に泣いている人もいた。みんな今までのライブの物販とかで買ったんだろうな、偉いな。ファン暦長いんだろうな。

 

オープニングトークは、予習をしておいたので、「誰か助けてーーーー」に対し、「ちょっと待っててー」や、「賢いかわいい」に対し「エリーチカ」などの応答が私にもできるようになっていた。

 

 

そこからは名曲のラッシュでありました。

 

途中、これまでのμ‘sの活動を振り返る、みたいな映像の時間や、ちょっとしたMCの時間あったんだけど、それでも衣装換えとかもあったから、メンバーは5時間ほとんど休み無しだったんじゃないかと思う。踊りながら歌っているのだから体力的に相当しんどいだろうなと思うが、笑顔で頑張っていて素晴らしい。

 

個人的に、「No Brand Girls」と「Sunny Day Song」とのときなんかは、会場の盛り上がりが究極のレベルに達していて、アニメと現実の境界線が曖昧になり、「μ‘sが18人になっている」という感覚を味わってとても感動した。

言葉で表現しにくいが、それを見ていて、日常のクソさの中に埋もれていた、「生きていたい」という気持ちや「輝いているものを見たい」という気持ちが、自分の中で復活していく感覚があった。(俺はこの気持ちを仕事のときでも思い出すようにしていて、そのたびに頑張ろうと言う気持ちになり、感謝で胸がいっぱいになるのであります。)

ああそうか、自分はまだこんなにも、素直に輝くものを素直に感じ取れるのか、ということに対する驚きや、μ‘sの声優陣の姿の奥にアニメのキャラクターが宿っていて、それが現実と重なって動いている(ステージのスクリーンにはアニメのライブ映像が映っているから余計にそう感じた)という奇跡に対する祝福の声の中に参加できている喜びで、自然と涙が流れてしまった。

 

あと、くっすん(東條希)が走ってナンジョルノ(絢瀬絵里)に抱きついているときも、希が絵里に抱きついているようですごく良かった。しかもナンジョルノのほうは膝の怪我もあったようだし。そしてくっすんといえば「ハトビ」の時の「ランナウェイだランランナウェイだ」のときに希と同じように回転していて、それを見て私は80年代のオタクのような笑い方で笑ってしまった。

 

「サニデ」が終わって、ライブは終了(本当に40曲くらい歌って踊ってた)、μ‘sははけていったが、そのままで終わるはずもなく、アンコールの声が東京ドーム中に響いていて、館内でも「アンコール」とみんなで言っていて、「いやここで言うのは意味ないだろ」と思いつつもオレもアンコールを連呼した。

 

だってまだ「スノハレ」も「僕光」も「きっと青春が聞こえる」もこの時点では歌ってないからね。

 

アンコールで出てくるμ‘sたちに再び拍手喝采が送られ、「スタダ」で盛り上がった後に、

待っていた「Snow halation」

スノハレは本当に普通の曲として聞いても、名曲だと思う。サビのところで一気にサイリウムがほのか色(オレンジ色)に変わって、ファンは本当にすごいな、と感動して鳥肌が立った。

その後、何曲か歌って、「次が本当に最後の曲です」とえみつん(高坂穂乃果)が言ってめちゃくちゃショック。たぶん最後は僕光だから、きっと青春が聞こえるも、愛してるばんざーいも歌わないのかよチキショウ!と思ったら、まさかの「モーメントリング」

 

えええええええええええええ。

まじか。と言わざるを得ない。いや、たしかにラストシングルだけど、内容的には絶対ここは僕光だろ、映画のエンディングでもμ‘sのラストで歌った曲は僕光だっただろ、真姫が作った曲だろ!おい!うそだろ!ぎゃああああああああああああ!!!!!

と思っていたらもう歌が始まって、終わった。

いや、これはミスだろ、終わりかよ、と思ったら、ステージのスクリーンにまたインタビュー映像が映る。

え、まだあんのか!!!

 

ステージについに、あの「巨大な花」のセットが出現し、ギャオオオオオアアアアアアという大歓声。

「1・2・3・4・5・6・7・8・9」と9人の声がそれぞれ聞こえ、会場のラブライバーは「ジュウウウウウウウウウウウウウウウウ(10)」と叫んだ。(ファンは10人目のμ’sなので。)


「僕たちはひとつの光」前奏のピアノがかかると、

よかった、ちゃんとこれで終わってくれるのか、という安堵と、ピアノの美しさだけで泣けてしまう。

 

「ほのか」「のぞみ」「ほしぞら」「はな(よ)」「にこ」」「ことり」「うみ」「絵(り)」「まき」

全員の名前が一番の歌詞に入っているすばらしい歌。涙腺がゆるみっぱなしで聞いていると、μ‘sの全員もたぶん泣いていた。でも完全な涙声になっていないのがすごくて、そこにも感動してしまった。

曲が終わっても歓声はなりやまず、9人全員で円陣を組んで紙ふぶきがドームに降り注いでいた。

そしてもう一回「僕たちは一つの光」の前奏がかかり、今度はファン全員で歌うことに。

粋だなぁ、と思う。まさにみんなで叶える物語なんだなあ。

館内に歌声が響く。みんな歌うまいな。

 

5時間の上映が終わり、スタンディングオベーションが収まった後、余韻に浸りたくて最後列の席に移動してぼーっとしていると、娘をつれていた父親と思われる人が、座りながら泣いていて、娘がそれを不思議そうに見ている、という奇妙だけど暖かい光景が見れた。

泣いている人多かったですね。

 

一週間たっても、感動が消えない。

はまって3ヶ月の、超がつくほどにわかの俺がこんな風に思ったのだから、電撃G‘sマガジンでの企画段階から6年間追い続けたファンからしたら本当にたまらないだろうなと思う。

ファンが一緒になって盛り上げていて、その誠実さ、実直さに心が打たれた。本当に「みんなで叶える物語」なんだな、と感動する。この熱いファンの存在が、平面的存在を現実に拡張させた。ファンの祝福が、二次元の中にある「空気感」を現実にまで呼び出すことに成功した瞬間を、見た気がした。

 

欲を言えば、もっとアニメの映像が見たかった。だけど、やっぱ映画の最後の「僕たちはひとつの光」を歌うシーンでもうラブライブのアニメはおしまいなんだろうな。

ライブの冒頭のアルパカの出産のシーンも、そこから東京ドームに向かっているんだから時系列的には映画のラストシーンよりも前だし

 

もう終わっちゃったんだなー。あー。


ススメ→トゥモロー