実家脳

想起

映画 何者  2ちゃんねる的・芝居・観客

ネタバレしているので注意


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働くこと。何者かになること。



”けれど考えてみれば、ぼくはぼく自身のもとから消え去ることはできない。どんなに遠いところへ行っても、ぼくはぼくを引きずっていくしかないのだ。”

(原田宗典「何者でもない」)

何者というタイトルと、役者と、人生について、映画を見ながらこの本を思い出した。

こう引用すると、ゲスの極み乙女の、「私以外私じゃないの」って端的にまとめていてすごいと思う。


snsという病。
snsは、本来気づくべきではなかった、「人間は充実している様子を他人に見せようとする」という事実をつきつけてくる。
そこで、心に闇が生まれる。

この闇に任せていると、他人を批判したり、他人の動向を気にすることに必死になって、自分を見失う。2ちゃん的になる。そしてこの2ちゃん的な認識は相当支配的になっている。



後半で、ミヅキがが、コウタロウのことを、「自分の人生にドラマを見つけて、その主人公になれる人」と言うシーンがある。

ここはかなり示唆的だと思う。

人生の中で起こるドラマは、テレビドラマのようにわかりやすくもなければ、観客もいないし、僕らは「一人芝居」を続けなければいけない。

でもこれを「一人芝居」ととらえるのは、あまりにもテレビ的、メディア的、映像的な思考に毒されたもので、もっと自分の人生に沈潜すれば、「観客」はいらない。

終盤、タクトは自らが設定した「観客」を捨てて、ミヅキ一人のために「脳内一人芝居」の舞台を降りる。

自分が勝手に脳内で想定した他人や観客よりも、もっと力強くて現実的で親密な思いが、ミヅキから感じたからか。そう考えると、あの演出は見事だった。

この観客は、現代では、2ちゃん的な観察者の価値観を撒き散らす。痛いとか、寒いとか。

めちゃくちゃこっ恥ずかしいことを言えば、この 分散された自分の人生を評価する 何者か を一つに統合して力強くするのが、恋愛感情なのだと思う。映画の内容とだいぶずれたが。そしてタクトがミヅキのもとに走ったのは恋愛感情だけではすまされないのだけれども。

ただ、コウタロウのようにわかりやすいドラマ的なものを追える人間は少ない。

そして、人生に わかりやすいドラマ があると、その人は色々な闇に入り込みにくい、と思う。
(逆に仕事が全然できない、とかの、人生のドラマをすべて破壊してしまうような特性をもつ俺は、闇の中でちゃんと生きててすごいと思う。)

だからドラマを追える、人生の主人公≠何者であるコウタロウは、最後は 何者 であるタクトと一緒にいない。一番壮絶な、2ちゃんがばれるシーンでは、同じく 何者 であるリカが出てくる。

これは完全に俺の好みだけど、ここでタクトとリカが自分の闇を完璧にさらけ出してめちゃくちゃなセックスをはじめたら、死ぬほど興奮するだろうし、人間、って感じで泣いたかもしれない。

それがなくても、この映画はかなり面白かった。
邦画にはやっぱりこういう地味かつ本質的な内容がぴったりだ。
アニメだと、この雰囲気は出せないと思う。