「世界の終わり、あるいは始まり」 歌野昌午
息子よ、お前なのか。
「葉桜の季節に君を想うということ」を以前読んだときから、この作者はすごい人だと思っていたが、この作品でそうした思いはさらに強まった。
非常に実験的だ。何にせよ、実験的なものは評価したい。
パラノイアじみた父親の思考の物語。
ここまで緻密に妄想できたら、もはや現実を生きる意味はあまりないのかもしれないね。
世界の終わりを、父親は何度も体験する。妄想の中で。
そして妄想で得られた凄惨さを回避するために、妄想からフィードバックしてまた妄想をする。
タイムリープものに本質が似ている気がする。フィードバックして強くなる。
最後まで、事態は動いていない。動いているのは父親の頭の中だけである。
エロゲー的リアリズムというか、バッドエンドの妄想が複数あって、それが緻密なのだ。
父親は妄想から帰ってこれなくなるかと想った。
けれど、最後には現実と言う世界の始まりに戻ってこれた。
妄想という世界の終わりから、現実という世界の始まりに行き着くまでの物語なのだ。
いい。