実家脳

想起

「白痴」  坂口安吾   

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観念を乗り越えたい。観念は弱すぎる。なんとかして現実・実践にもっていきたいものだ。

弱者である観念だけの存在は、非常に利己的で、「冷酷」で「鬼」になれるということを、この短編集のなかの「青鬼の褌を洗う女」の中で坂口安吾は見事に指摘している。僕はこの話がこの本の中で、「私は海を抱きしめていたい」と同率トップで好きだ。

 

思うに、現代社会は観念社会で、現実・実践にほとんど触れずに学校を卒業することが可能だ。

そして自分自身がそうで、

仕事のような、実践のみ求められる場では、立ち尽くす。そして、観念的にも醜悪で、無論実践的にも何の役にも立たない存在となって、二重の意味で自分を苦しめる。

 

白痴 とは、観念だけになった状態なのかもしれない。

実践や現実を全く欠いている自分は、職場で他人に、バカにするような眼で見られる。

そして、「白痴」に出てくる女のように、「放心と怯えの皺の間へ人の意志を通過させているだけ」なのだ。

観念の世界では優劣がないが、現実・実践の世界では、優劣があるどころか、むしろ、優劣しかない。比較し、合理的なものを選択し続ける作業が、実践の場であるからだ。

 

自分は、実践に対しての全くの白痴であり、できることなら、白痴のままで実践の場なんて出たくない。ずっと温存しておきたいのだ、観念の世界で。

しかし、社会はそういう碇シンジのような考えを許さない。

 現実・実践の白痴は、フィクションという観念の世界に生きる意味を見出すしかないのか。だとしたら、観念は残酷な循環を生んでいる。

実際のところ、今の自分に生きる理由なんて、実践という観点からは何もないのだ。

現実・実践において、自分の居場所はないし、そもそもこんな空間好きじゃねえんだよバーカ、という感じだ。

 

ここで終わってしまったら、ただの絶望や切なさの表明であり、それは最も観念的で、自分を自分以上に見てもらおうとする行為であり、今の自分にとって乗り越えなければいけないものだ。

 

観念的、とは、自分を作品にしてしまう感覚だと思う。

見る側よりも見られる側、審査する側よりも審査される側に回ってしまう。

そういう意味で観念的になることは積極性をなくすことだが、観念的な存在は、その「積極性がなくなってしまった自己」をまた評価の俎上にあげるのだ。

無限に「見られる」、「審査される」という対象物になろうとする浅ましさが、観念的な思考の正体だろう。

しかし、観念的な存在は実践的なものとの間で苦しんではいても、生きている人間を見る、と言う行為をしないのだ。「青鬼の~」でサチ子が久須美のことを心中で痛烈に批判するがごとく、観念的な人間は人生や他人すらも観念で捕らえて、現実・実践的な眼で見ることをやめているというかその能力を獲得していないから、よく言われる、「他人は自分にそこまで興味を持っていない」ということを、腹の底から理解するということが困難なのである。興味をもっている、という前提で思考が始まっているんだ、観念の人は。

通常の人間が少年期や思春期のどこかで獲得する感覚を、観念の殻に閉じこもった人間は獲得できないまま大人になり、いつまでも「見られること・審査されること」を基準に一喜一憂し、自分自身の満足という観点から物事を行うことができない。自分はそこから抜け出したい。

見られることを待っている対象物 になるよりも、

不気味で醜悪だけど意志を持って動いているなにか、のほうが上等だ。