実家脳

想起

「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」 押見修造  

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吃音の高校生の女の子の話。

 

押見修造はうまいね。絵も話も。

 

 

吃音のつらさは自分にはわからないが、自分の醜態を人に見せなくてはならない恐怖はわかる。

 

例えば自分にとって、作業は恐怖だ。

 

仕事は「作業的な何か」の塊だ。だから自分は仕事が怖くてたまらない。

何かしらの作業が人と比べてうまくできないのを実感するときの自尊が削られていくのも怖いが、それを実感して妙に職場の人に謙ったり、卑屈になっていくのも怖いし、人から自分の愚鈍さや頭の使えなさを叱責されたりバカにされるのも怖い。

 

志乃ちゃんが人前でしゃべるときの怖さは、自分が人前で作業をやる怖さに似ているんだと思う。

 

 

 

 

 

『でも追いかけてくる 私が追いかけてくる

 

私をバカにしてるのは 私を笑ってるのは

 

私を恥ずかしいと思ってるのは

 

全部私だから』

 

これは本作の中で最も注目に値する、受け取るべき一文だと思った。

 

追いかけてくる自己と逃げる自己。自分の中で勝手な逃走劇を繰り広げるのが高校生だ、と信じたい。

 

前回の「ちーちゃんはちょっと足りない」のナツのように、自己を許しがたいものとしている状態で、自己言及を続けても、泥沼化しやすい。

自己を許容できない状態での自己言及にゴールがないのは、自意識がどこまでも自分を追い詰め、そして逃げていくからだろう。志乃ちゃんはナツほど自己言及はしていないけども。

 

確かに、ひどいことを平気で言う他人は存在する。

だが、そういった嫌な存在や言葉を心の中でナイフのようにちらつかせ、いつまでも自分を脅かしているのは他ならぬ自分自身なのだ。

全部私なのだ。

 

 

本作では最後に志乃ちゃんが

 

『大島志乃だ これからも・・・これがずっと私なんだ』

 

という幸福な自己肯定の状況に至るが、これは唐突すぎる感があるように思える。

印象的な良いシーンではあるけども。

無論、自分を肯定するのはゴールだ。

ただ、生きていくうえでの基本的なことが苦手な場合、そのゴールに到達するのが難しい。「ありのまま」でいられるわけではない。

 

しかし、自己を受け入れていない状態で自己言及を続けても、自分が追いかけてくるだけ、というのを、フィクションの中で言ってくれるのはありがたい。

 

こういうのがもっとたくさんあれば、自己言及をしそうになるとき、フィクションを読んで時間稼ぎができるからいい。

 

志乃ちゃんに、あの素晴らしい愛をもう一度 を歌わせてるのいいな