実家脳

想起

「ちーちゃんはちょっと足りない」 阿部共実 

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阿部共実が天才だと思う理由を全て書こうとしたら、きっと俺は老人になってしまう。それくらい時間がかかるから、「ちーちゃんはちょっと足りない」だけにとどめよう。

 

このマンガは「このマンガがすごい2015」オンナ編で1位だけど、一般受けはしないだろう思う。暗いし。

ただ、自分は名作とか傑作というのは、見た後に自分の考えを述べたくなるようなものだと思っているし、その意味では名作だ。

そして本当に「すごい」し、マンガはもうこんなところまで描けちゃうんだ、という感動がある。小説が、読者の「切実な辛さ」にちゃんと答えずに、チンタラとスタバで格好つけて読むような、根源的にフィクションを必要としていない層を相手している間に、マンガはもうこんなところまできてしまったぞ、という感じ。

 

 

 

内容に踏み込みすぎて紹介のようになっても意味がないから総論みたいに書く。

 

 

 

 

 

 この話はちょっと頭が足りない女子中学生【ちーちゃん】が、友達の女の子【ナツ】【旭ちゃん】たちと一緒に、日々を楽しく過ごすドタバタコメディ!!!

みたいな話だと思ってた。

 

 

全然違うね。やられた。

ちーちゃんはちょっと「足りない」って、頭のことなんだ、と思って読んで、見事に裏切られた。

まどマギみたいに、かわいらしい絵で、とんでもなく深いことをやってくる。

 

 

 

 

自分を含め、多くの人は、青春の後悔を見ていたいんじゃないかと思う。

えぐって、膿を出してほしいという思いがある。

この物語は、というか阿部共実は、そうした人を思う存分斬ってくれる

 

 

 

 

この物語の要点は 他者 と 考えるバカ

 

だと思った。

 

「何者にもなれないこと」と、「何者になるかを決められないうちに、他者からどんどん何者かの烙印を押されてしまうことの鬱陶しさや怖さ」、他者や未来が遠くに行ってしまうような感じ。

 

「他者」は「他者」として生きているのに、「ナツ」は「ナツ」ではなく、「何者でもない」ものとしてしか生きられない。

いつも何かが欲しくて、何かになりたいのに、出てくる言葉は、その場を取り繕う、曖昧な言葉でしかない。他人の顔をうかがい続ける。

 

 『何か足りないものはないの?

 

怖いものはないの?

 

嫉妬するものはないの?

 

なんでみんな不満そうな顔すらしないの

 

そんなのおかしいよ

 

せこいよみんな』

 

自分だって、はじけるような何かを追い求めたい。だけど、自意識という罠にかかって自縄自縛の青春を送るナツには、何もかもが遠い。

大人にも共通する不安で不満な感情の中に出てくる、せこいよ、という言葉の年齢相応のかわいらしさと悲痛さよ。

 

 

『こうやってふつふつと不満も嫌らしいことも考えてるくせに一切主張できずに黙ってて

 

私は 変化することが怖くて 衝突することが怖くて 消失することが怖くて 

 

 その場をいい加減にやりすごして誰にも害を与えることすらなくあたりさわりなく生きて

 

 それがいい人っぽく見えてるだけで

 

私は何もしない ただの静かなクズだ』

 

ただただ突き刺さる。

 

自分を脅かす他者が怖くて、自分を保存することだけに四苦八苦して、自分を高く放ったり、すてっぱちになることができない。この全てをこのままに保存しておきたい、変わるのを拒否したいという感情はとてもよくわかる。

なんでみんなそんな変わっていくんだよ、素早く適応していくんだよ。

ちょっと待ってくれよ、追いつけねぇよ、置いて行かないでくれよ。という叫び。

 

いい人っぽく見えてしまっていること、がさらに自分の自由を奪う、ということもあるだろう。

 

そして自分が嫌になっているのだが、その声は誰にも響いていない。

 

自分を変えてくれるもの、何者にもなれない自分を何者かにしてくれるもの。

それはナツにとってリボンなのだが、このリボンは最後までプラスに働くことはない。リボンという女の子らしいかわいらしいアイテムと、深刻な闇の対比が素晴らしい。

そして、リボンを見せようとするシーンの、ちょっとしたボタンのかけ違えによる間の悪さと、深刻な闇に落ちていくナツの描写が、めちゃくちゃうまいんだこれが。

 

 

『未来が狭いよ』というナツの言葉。

初めて出会う深刻な憂鬱や不安の感情を、本当にうまく切り取っている。

やることなすこと最低な方へいって、常に弁解しなければいけない立場に回ってしまう。ヒリヒリして息苦しい。

だけどなんでこんなに見ていたいのか。

それは、つまるところ、自分を含め多くの人は、自分の過去を後悔させるようなものを見ていたいんじゃないか、ということだ。

 

ナツにとって、ちーちゃんは一緒にいて自分を脅かさない存在で、確実な味方だからこそ、それだけじゃ「足りない」。欲しいのは旭ちゃんたちだ。

自分を傷つけてくるものには恐怖し、傷つけてこないものは見下している。 

 

同じ「足りない」ちーちゃんはバカだ。ただ、考えてないバカだから突破できる。ナツと違ってそれを外に向かって言えている。

 

『いっつもちーだけイジワルする なんで! わぁーー!』(スーパーにて)

 

『もっともっともっと いっぱいいっぱいほしい ちーにはなにもないなんで!』

(二度目だけど、盗んだことがばれたシーン)

 

一方ナツの場合、繰り返しになるけどその叫びは最後まで外には向かうことはない。

あれほど内面に溜め込んでいるのに、苦しみながらも自己韜晦を続けてしまう。

だがナツも決して頭がいいというわけではない。

 

考えないバカが救われて、自意識を抱えて余計なことを考えているバカは救われることがない。

 

『私も旭ちゃんや志恵ちゃんやちーちゃんみたいに大切なことを大声で叫びたいよ』

 

ナツは本気で思っている。そう思っても、消え入りそうな声で「ちーちゃん」と連呼することしかできない。わかる。というか後半は本当にため息が出るくらいすごい。

静かな叫びと報われなさのラッシュだ

 

『私がこんなことしたら気持ち悪いよね』

 

と思って、せっかくちーちゃんが自分に駆け寄ってきたのに、ナツは抱きしめることもできない。むきだしの感情を表現する若さ、勇気、傲慢さを、ナツは中学生にして失ってしまっている。この表現できるかできないかの差が、自己を温存してしまうかどうかの差が、同じ足りないもの同士でも不幸になるかどうかを決定的に分けているんだと思う。外に出さなきゃ伝わらない、どんだけ罪悪感で苦しんでいても、劣等感で心が悲鳴をあげていても、外に出さないかぎり何にもならないという残酷な事実を突きつけてくる。

しかし、考えてここにたどり着くのは相当厄介で、「考えてしまうバカ」であるナツは茨の道を歩くことになる。

 

他人に気を使うけど、気にしすぎた結果それが外部にうまい具合に出ることはなくて、一人で勝手に苦しんでいく様を、ここまでうまく描いているマンガはそうそうない。

苦しみだけは本物なのに、それをうまく伝える術がないから、自分に言い訳をして、ちょっとした悪事に手を染めて、それがばれやしないかと怯えながら日々を過ごす。

 

ちーちゃんは何者かになることを考えていない。自分以外の何者にもなれないことを、まるで感覚的に知っているようだ。

だから、ガチャガチャをやっても『かわいい』と満足することができる。

そしてこの『かわいい』というシーンは本当にかわいい。

大人用の靴のサイズがあわなくて泣いてしまっても、キッズサイズの靴でも満足できる。

「足りない」が、足ることを知っている。

 

ナツはリボンを捨てたけど、ちーちゃんならそんなことはしない、自分がいいと思ったものは、ボロボロになるまで使うだろう。

 ではナツはちーちゃんを真似するべきなのかというと残念ながら一度考えてしまったバカは、考えないバカに戻れないだろう。

それは、小学生の時に明るかったハナタレ小僧が、思春期になって急に暗くなって、そのままの状態で戻らずに生きていく現象に似ている。

ナツはちーちゃんのようにはもうなれない。ナツとして、「自分という存在」を引き受けて生きなければ、「何者でもない」存在として生きることになってしまうだろう。

 

自己を保存して、ケースにいれて、「自分」として外気に触れること(外部に表現すること)を保留し続けていては、きっとどこへも行くことができない。そういう若さゆえの恐怖や絶望が、いつかは懐かしくなるのだろうか。

その時ナツは自分という存在の苦痛やどうしようもなさを引き受けているだろうか。

 

考え続けてしまって青春を無駄にしたすべての人へ。