The shape of voices
聲の形の簡素な感想です。
全然ネタバレではないけども。
君に生きるのを手伝ってほしい。
生きるのを手伝ってほしいのは、自分にはないプラスのものをたくさん持っている人ではなく、自分と同じような欠落を抱えた人間だ。
石田も西宮も、自分自身の嫌さを受け入れられない。だけど、だからこそ、互いを受け入れられる。
逆に、上野は自分を肯定していく。自分の肯定や、承認から思考がスタートしている。
それはときに他人を傷つける。
漫画を読んだ時は、上野は嫌な人間だと思ったけど、映画を見ているときは、西宮にとってかなり示唆的な存在だな、と思い直した。
そういう力強い自己受容というのはとても大事だ。
しかし、同じ欠落がないから、石田は上野に惹かれることはない。
それが、上野のような存在の悲哀だろうか。
小説 砕け散るところを見せてあげる 竹宮ゆゆこ
久々に小説の感想を書いてみる。記録しようと思えるほどの小説を最近読んでいなかった。
いいタイトルだと思う。そして浅野いにおが描いた表紙も、何か心に訴えるものを感じさせる。浅野いにおの漫画はそんな好きじゃないけど、こういう絵はいいなと思う。作者はとらドラの原作の人らしい。読んでから知った。
(以下、めちゃくちゃネタバレあり)
ただ、内容がおしい。
つまらないわけでは決してないけど、素材の割りに深い感動を味わえなかった感じ。
まず、ハリの絶叫についての説明が足りないと思う。
虐待をうけていたから、人に急に体に触られることが怖くて、常軌を逸した絶叫をするのだろうか、あまり納得できない。
この、絶叫は、「砕け散るところ」の核なのかもしれないと思っていたけど、たしか主人公が上記のように推論した程度で終わってしまう。もったいないと思う。
いきなり周波数が合う。って表現はいい。この一文が、清澄とハリの関係を端的に表している。
っていうか中盤のラブコメ的な部分がこの人が本領を発揮するところだと思う。
ラストは、なんでこういう風な構造にしたのか、わからない。
語り手が別だった、ってことはよくあるけど、それをする理由があったのか。
しかも、描き方がずるいと思う。
21pの「で、ここからが本当にオレの話。」と出たら、今までしゃべったのもオレ、と判断せざるを得ない。
清澄の息子と清澄が同じ空間に存在していて、テーブルトークのようにしゃべっているならまだしも、同じ空間に存在していないのだから、今まで「オレ」が語っているのに、「で、ここからが本当にオレの話」で語り手が交代するのは看過できないほどの悪文だと思う。「で、」って、「そして」って意味なんだから。明らかにその前の文章の影響を受けていると普通は思ってしまう。話者が交代しているなら、前の文の影響を受けているような書き方はおかしい。
仮に交代していないのなら、清澄の父親が死んでいるのに父親が会いに来ている。
死んだのではなく、離婚していただけ。(本文の記述にもこれに近いように書いてあったからこっちが正しいのだろうか)
もしそうだったら、最後のほうの数行でそれを説明しているのはあまりにも雑だし、そのことに対する清澄の驚きがないのは不自然だし、事前に清澄が知っていたら、冒頭の「亡き父」という表記はおかしい。
どっちにしろ、こんな構造にする理由はないと思う。
あと、ハリの父親の件に関して、警察を呼ぶ前に骨を見つけようとするかけに出るのも説得力が乏しい。
見つかって殺されたら終わりなら、その後のこととかよりもまず警察に駆け込むのが優先だろうに。
めちゃくちゃ期待していただけに残念だったんだよな。
期待していたから、こんだけ惜しいなと感じてしまう。
虐待と少女(ちょっといかれている少女)というテーマでは、どうしても桜庭一樹の「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」に軍配が上がってしまう。似てるけど、勝ててない、と思ってしまう。
あと、帯についてる、「最後の一文云々」っていうの、もうそろそろやめてくれ、と思う。それだけで変にハードルがあがってしまうから
みんなで叶えた物語
μ‘sのファイナルライブということで,
この前の土曜日に映画館へ行った。
前日の4月1日に東京ドームで行われれたライブの内容を、劇場で楽しむということで、上映時間300分の休憩なし。ラストライブだから本当の解散の様子をライブ内のアニメで見られるのではないかと思い、期待が高まる。
まず、チケットを上映4時間前に購入。オールナイトを池袋で見たときと違って、さすがと言うか、席がほぼ埋まっている。サイリウム無しで大丈夫か、と思いつつ館内に入ると、
自分の席の左隣は男子中学生二人組、右隣は普通の、一人で見に来た大人、と言った感じだった。
中学生の会話を盗み聞きすると、昨日東京ドームに実際に行っているらしい。しかも、かなりステージに近い位置で見ていたらしい。すげーな、でも内容をしゃべったら容赦なく手が出るからな。さてはこいつら学校サボったな、いや今は春休みか、などと思いつつ待っていると、スクリーンの様子が変わり始めた。
普通の映画とは違い、上映開始の時間までは映画の宣伝なんかはなくて、ライブが始まる前の会場内の様子が映っている。こういうのも感情を盛り上げてくれていい配慮だと思う。
色とりどりのサイリウムを持っている数万人の人々が映っている。館内の人々もサイリウムを取り出し始めて、普通に立ち始めたので、俺も立つことにする。こういう作法がわからないので、俺は終始隣の中学生の行動を真似た。
そして、メインステージの画面が明るくなり、アニメ映像が映し出された。
土砂降りのような轟音の歓声が画面から聞こえてくる、花陽がドアップでうつって、何かしゃべっているが、ウオオオオオアアアアアアアアアア!!!!!!!!!!という快哉でかき消される。館内でも「かよちーーーーーん!!!」「はなよおおおおあああああああああああああああ!!!!」という野太い声を出す豪傑のせいで、余計に聞こえない。
どうやらアルパカの出産というシーンで、μ‘sメンバー全員が集まっていて、真姫が、「私が手伝ったんだから当然ね」とか言うと、また会場がグアアアアアアアアとかマキャアアアアアアとかの歓声に包まれた。(これ以降歓声は省く)
ライブが今日あるんだ、とかほのかが言って、希が会場の場所どこか教えて、みたいなことをいって、耳を画面に差し出すと、会場の何万人がそろって「東京ドーーーーーーーーーーム!!!!」と言っていた。もちろん館内でも。こういうメタフィクション的なやりとりは面白い。
「ドゥ、ドゥーーーーームですかーーー」とか言って、今までのライブ会場からハートをつないでいくみたいな(説明が難しい)μ‘sメンバーが東京ドームに入り、「僕らのライブ君とのライフ」の前奏が鳴り響き、ついにμ’sの声優陣登場。歓声が爆発した。
最高の演出だ、と思った。文句のつけようがない。客の声もまたいいね。
周りを見たらみんなサイリウム持っていた。サイリウムを持たずに突っ立ってて申し訳ない。既に泣いている人もいた。みんな今までのライブの物販とかで買ったんだろうな、偉いな。ファン暦長いんだろうな。
オープニングトークは、予習をしておいたので、「誰か助けてーーーー」に対し、「ちょっと待っててー」や、「賢いかわいい」に対し「エリーチカ」などの応答が私にもできるようになっていた。
そこからは名曲のラッシュでありました。
途中、これまでのμ‘sの活動を振り返る、みたいな映像の時間や、ちょっとしたMCの時間あったんだけど、それでも衣装換えとかもあったから、メンバーは5時間ほとんど休み無しだったんじゃないかと思う。踊りながら歌っているのだから体力的に相当しんどいだろうなと思うが、笑顔で頑張っていて素晴らしい。
個人的に、「No Brand Girls」と「Sunny Day Song」とのときなんかは、会場の盛り上がりが究極のレベルに達していて、アニメと現実の境界線が曖昧になり、「μ‘sが18人になっている」という感覚を味わってとても感動した。
言葉で表現しにくいが、それを見ていて、日常のクソさの中に埋もれていた、「生きていたい」という気持ちや「輝いているものを見たい」という気持ちが、自分の中で復活していく感覚があった。(俺はこの気持ちを仕事のときでも思い出すようにしていて、そのたびに頑張ろうと言う気持ちになり、感謝で胸がいっぱいになるのであります。)
ああそうか、自分はまだこんなにも、素直に輝くものを素直に感じ取れるのか、ということに対する驚きや、μ‘sの声優陣の姿の奥にアニメのキャラクターが宿っていて、それが現実と重なって動いている(ステージのスクリーンにはアニメのライブ映像が映っているから余計にそう感じた)という奇跡に対する祝福の声の中に参加できている喜びで、自然と涙が流れてしまった。
あと、くっすん(東條希)が走ってナンジョルノ(絢瀬絵里)に抱きついているときも、希が絵里に抱きついているようですごく良かった。しかもナンジョルノのほうは膝の怪我もあったようだし。そしてくっすんといえば「ハトビ」の時の「ランナウェイだランランナウェイだ」のときに希と同じように回転していて、それを見て私は80年代のオタクのような笑い方で笑ってしまった。
「サニデ」が終わって、ライブは終了(本当に40曲くらい歌って踊ってた)、μ‘sははけていったが、そのままで終わるはずもなく、アンコールの声が東京ドーム中に響いていて、館内でも「アンコール」とみんなで言っていて、「いやここで言うのは意味ないだろ」と思いつつもオレもアンコールを連呼した。
だってまだ「スノハレ」も「僕光」も「きっと青春が聞こえる」もこの時点では歌ってないからね。
アンコールで出てくるμ‘sたちに再び拍手喝采が送られ、「スタダ」で盛り上がった後に、
待っていた「Snow halation」
スノハレは本当に普通の曲として聞いても、名曲だと思う。サビのところで一気にサイリウムがほのか色(オレンジ色)に変わって、ファンは本当にすごいな、と感動して鳥肌が立った。
その後、何曲か歌って、「次が本当に最後の曲です」とえみつん(高坂穂乃果)が言ってめちゃくちゃショック。たぶん最後は僕光だから、きっと青春が聞こえるも、愛してるばんざーいも歌わないのかよチキショウ!と思ったら、まさかの「モーメントリング」
えええええええええええええ。
まじか。と言わざるを得ない。いや、たしかにラストシングルだけど、内容的には絶対ここは僕光だろ、映画のエンディングでもμ‘sのラストで歌った曲は僕光だっただろ、真姫が作った曲だろ!おい!うそだろ!ぎゃああああああああああああ!!!!!
と思っていたらもう歌が始まって、終わった。
いや、これはミスだろ、終わりかよ、と思ったら、ステージのスクリーンにまたインタビュー映像が映る。
え、まだあんのか!!!
ステージについに、あの「巨大な花」のセットが出現し、ギャオオオオオアアアアアアという大歓声。
「1・2・3・4・5・6・7・8・9」と9人の声がそれぞれ聞こえ、会場のラブライバーは「ジュウウウウウウウウウウウウウウウウ(10)」と叫んだ。(ファンは10人目のμ’sなので。)
「僕たちはひとつの光」前奏のピアノがかかると、
よかった、ちゃんとこれで終わってくれるのか、という安堵と、ピアノの美しさだけで泣けてしまう。
「ほのか」「のぞみ」「ほしぞら」「はな(よ)」「にこ」」「ことり」「うみ」「絵(り)」「まき」
全員の名前が一番の歌詞に入っているすばらしい歌。涙腺がゆるみっぱなしで聞いていると、μ‘sの全員もたぶん泣いていた。でも完全な涙声になっていないのがすごくて、そこにも感動してしまった。
曲が終わっても歓声はなりやまず、9人全員で円陣を組んで紙ふぶきがドームに降り注いでいた。
そしてもう一回「僕たちは一つの光」の前奏がかかり、今度はファン全員で歌うことに。
粋だなぁ、と思う。まさにみんなで叶える物語なんだなあ。
館内に歌声が響く。みんな歌うまいな。
5時間の上映が終わり、スタンディングオベーションが収まった後、余韻に浸りたくて最後列の席に移動してぼーっとしていると、娘をつれていた父親と思われる人が、座りながら泣いていて、娘がそれを不思議そうに見ている、という奇妙だけど暖かい光景が見れた。
泣いている人多かったですね。
一週間たっても、感動が消えない。
はまって3ヶ月の、超がつくほどにわかの俺がこんな風に思ったのだから、電撃G‘sマガジンでの企画段階から6年間追い続けたファンからしたら本当にたまらないだろうなと思う。
ファンが一緒になって盛り上げていて、その誠実さ、実直さに心が打たれた。本当に「みんなで叶える物語」なんだな、と感動する。この熱いファンの存在が、平面的存在を現実に拡張させた。ファンの祝福が、二次元の中にある「空気感」を現実にまで呼び出すことに成功した瞬間を、見た気がした。
欲を言えば、もっとアニメの映像が見たかった。だけど、やっぱ映画の最後の「僕たちはひとつの光」を歌うシーンでもうラブライブのアニメはおしまいなんだろうな。
ライブの冒頭のアルパカの出産のシーンも、そこから東京ドームに向かっているんだから時系列的には映画のラストシーンよりも前だし
もう終わっちゃったんだなー。あー。
ススメ→トゥモロー
卑屈を蹴散らす物語
かわいくて、明るくて、学校が大好きで、仲間が大好きで、努力するのが大好き。何の打算もなく人間関係を結び、恐怖や不安や恥が健全なレベルにとどまっていて、生きることにためらいがない。
軽やかに、華やかに、まっすぐに、輝く。
こんな輝きを、普通は直視できない。現実にこんな人間がいたら、必ず嫉妬や羨望に伴う卑屈さが自分の中で蠢くから。
だが、ラブライブの9人のキャラクターは、そういう人間だ。そうであるのに、自分は嫉妬するどころか、感動している。
なぜ感動できるか。それは、この物語は、女子高生がスクールアイドルを目指すと言う、今の自分にとって笑うくらい一ミリも関わらないことをテーマにしている作品だからだろう。
自分が大して興味がなかったり、つまんないだろうと思っている世界からのメッセージだからこそ、まっすぐに届く、と言うことが往々にしてある。
「時をかける少女」や「おおかみこどもの雨と雪」、「オナニーマスター黒澤」なんかも馬鹿にしながら最初見てたらこりゃえらいことだ、と衝撃をうけた。
こうした、本来届かないはずの、否定されるべきメッセージが「誤配」されたときにこそ、余計な嫉妬や小賢しさや卑屈さが入らない。まっすぐに伝わってくる。
そしてこの「誤配」は、この「自分という存在」から離れているほど発生しやすいと思う。
宮崎駿が引退インタビューで「この世は生きるに値する」と言って、「あなたは生きるに値する」と言わなかったのには、明確な意味があると思いたい。
「あなた(私)」が入ると、卑屈の壁を越えなくてはいけない。ひねくれた、卑屈な人間のスケールで描かなくてはいけなくなり、非常に作為的になってしまう。それがぴたりとはまれば爆発的な感動を生むかもしれないが、相当深いところで共感させることを続けないと、卑屈な人間はついてこなくなるものだ。
「あなたのために作った」のではなく、「あなたが関係しているか知らないけど、こういう生き方をこの主人公はするんだ」という方向性で作ったほうが、人間を暗闇から引っ張り出すエネルギーを持つ作品が生まれやすいと思う。
ラブライブはまさにそういう、「あなたは知らんが、彼女たちはこうなんだ」という話で自分の中で「最高の誤配」を引き起こした。
1期EDの『きっと青春が聞こえる』の「素直に追いかけて 勇気で追いかけて」のここの部分だけで、ラブライブって説明されている気がする。
この、とてつもない素直さと勇気でもって、みんなで夢を叶える。
「生き生きできる何か」を持っているし、大好きなものを追いかけたいという気持ちがある。
そういう風に自分のパワーを100%出して、燃焼し尽くす青春が、いいに決まってる。厄介な僻み、卑屈根性によって捻じ曲げられるけど。
毎日消耗していると、そんな簡単なことも忘れてしまう。
消耗しまくっている人間がラブライブに出会うともう感謝の念しかない。 ストレートな気持ちを 思い出させてくれるから。
内容は、やはり抜群に面白いとか言うものではない。いや、はっきり言ってあらすじは面白くない。
でも構成や演出がうまい。
Aから始まってBで終わる、という物語も、構成や演出によってはめちゃくちゃ面白くなれる。あらすじ以外のところに魅力は宿る。
なにしろ、8話くらいでもう9人全員がそろっている。しかも、劇中にちゃんとライブシーンを入れながら。それでいて、全員のキャラクターが立っている。
9人もいて、である。
これはめちゃくちゃ驚くべきことで、例えば9人全員のキャラクターが立っている野球漫画なんてあまりないと思う。
だからこそ自分はこのアニメをキャラクターアニメの到達点だと思っている。
それぞれのキャラクターが立っているから、いくらでも関係性を深められる。
一期の「先輩禁止」という話で上下関係を意識させるような言葉を使うのをやめようという話があるんだけど、一話を使ってこれをやるってすごくないですか?僕はこういう、キャラクターたちの相互関係に非常に重要なんだけど、見落とされがちなところをしっかり表現するのって本当に良いし、立体的になってくると思うんす。
そして、言うまでもなく、音楽の楽しさ。
歌う元気さ。どんな振り付けや表情で歌うんだろう、という、今まで自分が見てきたアニメにはなかった視点をこの物語は導入してくれた。
僕も高坂穂乃果さんに見習って、自分の思いをストレートに書いてみました。
μ'sに入れてください。
オールナイトに行きました
僕はラブライブを今年の1月から見始めた。
NHKの再放送から見始めた、にわかだ。
大学生のときは、タイトルしかしらなかったから、ポスターを見ると「きめー」とか、「なんで全員エロマンガの女みたいに恍惚とした表情をしているんだ」などと思っていたが、今では私がおじいさん、といった感じでラブライブにどはまりしてしまったのである。
先週、NHKの1期の最終回が終わり、今週で2期をすべて見た。
昨日、午後9時半ごろ、オールナイトが池袋で放映されることを思い出して急いで家から飛び出した。オールナイト上映というものは初めてだが、調べたところ、途中休憩含めて370分とのこと。内容は映画と、20曲くらいのアニメ内でのライブ(PV含む)と、声優たちのライブ映像、の3本立て。見るしかねえ、と思った。
池袋につき、チケットを購入。
席があってよかった。上映時間までブックオフで暇をつぶしていると、ワイルドマウンテンの一巻を発見。ありがたい。
パチンコ屋から「君の知らない物語」が爆音で流れているのが聞こえ感動。
近くに泣いているババアはいるかと探してみるも見つからず。
館内に入ると、まず入場者特典をもらえた。μ'sが描かれた色紙と映画のフィルム。マキが映っているものをゲット。
思っていたより、お客はまばらだった。半分も埋まってないような。しかし、よく見ると60代くらいの男性もいるし、20代くらいの女性もいる。内容を思い出せば幅広い年代に支持されるのもわかる。
暇だったのでツイッターで調べてみると、なんとこのオールナイト上映ではサイリウムを振ったり、声を出して応援してもよいとのこと。
大丈夫なのか、めちゃくちゃうるさいラブライバーが隣にきたらどうしようか、などの不安を抱えていると、前の席の男がおもむろに周囲を確認し、サイリウムを取り出しているではないか。眼が血走っていた。そして周囲の人を見てみるとやはり多くの人がサイリウムのスタンバイをしている。むしろ自分のように手ぶらできているほうが少数派だった。
そして一曲目の「僕らのライブ君とのライフ」の前奏が始まると、「フォオオオオ」とか「アアアアアア」とか後ろから聞こえてきた。
後ろを振り返ると、太っている男が立ちながら応援していて周囲の人に注意されている。さすがに立つのはマナー違反だということだが、僕はその小太りの男のメガネに反射して楽しそうに踊っているμ‘sのメンバーの「楽しげな感じ」とその男の「希望そのもの」を見ているような目を忘れることができない。彼もまた、日常の憂さに悲鳴をあげたいところをこの輝ける少女たちによって救われたのだ、と信じたい。
最初は驚いたものの、慣れてくるとサイリウムを振りながら応援している人たち(ほぼ男たち)の声は決して邪魔ではなかったし、むしろそれがあることで、本当にライブ会場の観客になれたようで嬉しくなってくる。
自分もサイリウムがあれば、もっとライブになれていれば、ここの人々のようにタイミングよくみんなで「オイオイオイオイ!」とか「フーーーーー!!!」とか言えるのになぁ、せめて友達とくれば声出しても恥ずかしさはあまりなかったのにもったいないことをした、などと思いながら、真顔で首を振っていた。
そして、やはり映画館の音響で聞く音楽は素晴らしい。本当にライブじゃん、と思う。
特に、「僕らは今の中で」や「それは僕たちの奇跡」のときは声を出したくて仕方なかった。
「僕らは~」のときの、前奏がかかったときなんかは「ウオオオオオオオオ」っというひときわ大きな喝采があがり(こればかりはさすがに自分も声を出してしまった、あの透き通るような前奏は本当にいい)、わけもなく涙が出そうになった。マキがこちら側に手を振りながら入場してくるところなんか本当に感動してしまう。
あと、「それは~」のサビ前の「チャンスフォーミー!チャンスフォーユー!」のときも周囲の声にあわせて発声することができた。素晴らしい。
30分の休憩の後に、映画本編がスタート。もう僕はすでに一回見ているので確認作業のような感じになってしまうが、映画自体は、贔屓目に見てもどうしても間延びしていると感じてしまうところはある。というのも、2期の、卒業をひかえる3年生のためにみんなで海を見に行く話(11話)でもう感動はピークになってしまっている。
ただ、この映画の良い点は明確にμ‘sを解散させたところだろう。
廃校も回避し、ラブライブで優勝までしてしまうと、もう目標がない。
そのまま楽しい日常を続けるのもいいだろう。A-RISEはそれを選択した。が、μ‘sは今の形に全てを注いで解散した。この9人が学校に存在している、限られた時間の中で全力を注いだ。この竹を割ったような潔さこそが、スクールアイドルの生き方であり、寿命なのだ。と言うことを示した。
楽しさの底が見える前に、完結させること。消費されつくされる前に、終わりを用意してやること。
それにしても「僕たちはひとつの光」良い歌だなーーーーーーーー。
9人の名前が歌詞に入っているって最高。
エンドロールで9人が身につけていたものが映っている切なさもあいまって。
最後にμ‘sの声優たちによるライブの映像の上映、と言っても大半がトーク。
曲のほうは前半で聞きまくったからこういう配慮は個人的にはありがたかった。
だが個人的には声優の顔を見るのは避けたい。
現実の女の顔がアニメの女の顔を超えることは確実に不可能だから。まさに次元が違う。
そして一度顔を知ってしまったら、そのキャラクターを見るたびに声優の顔がちらついてしまう。やや肉付きの良いほのかや、普通に威勢の良いかよちんを見て若干テンションが下がったが、9人は普通にトークがうまかった。
「にこりんぱな」のラジオは拝聴したことがあり、3人は面白いとはわかっていたが、他の人も面白かった。
けど、あんまりチームワークがいいとは言えない場面もちらほら。オープニングでは小鳥役の人が意思疎通できなくて放送事故みたいになっていたし、エンディングではマキ役の人がそんな感じになっていた。ああいうことがあると、何があったんだろう、とか、実は仲悪いのか、とか勝手に勘繰ってしまってやめちくりーーーーーと言いたくなる。
特に、俺の中でμ‘sは絶対仲良くあってほしいから、そういう不穏な空気を少しも感じたくないのである。
370分もあるからちょっと寝ちゃったりするかな、って思ったらそんなことなくて、普通に最後まで見れた。腰が痛くなったくらい。
上映が終わると、「お疲れ様ー」とか「みんな帰ろう」とか「秋葉いくかー」とか、「神田明神(作中に出てくる神社)行くかー」とか、あえて他人に聞こえる声量で言っているオタクがいて、かなり良かった。
20160206
ラブライブは何も考えないで見れる。
仕事で埋もれたカスのような日常しかない僕の前に、何も考えなくていい日常を出現させる。
リアリティはそこでは問題ではなく、いかに何も考えないでいられるかが問題。
音楽がある。
音楽に染まっていく
僕の知らない同級生が、体育館で生徒を集めてパフォーマンスをしている。
そういうのは見ているだけで気分がいい。
言語以前の感覚というか熱狂がある。
正しいエネルギーの使い方の実演販売だ。
これに近い感覚をラブライブのオープニングは生み出している。
そういう感覚をラブライブのオープニング映像を見て思うのだ。
1話目のときは、オープニングを見て、やめろやめろ!と思っていた。
だが今となってはその圧倒的な躍動感、キャラのカットの配分のバランス、斬新ではないがそれ故に高校生的なリアルさを生んでいる振り付け等のうまさが胸に残る。
高校生の演劇を見たい。
きっと青春が聞こえる って切ないね
ピコピコ少年 押切蓮介
少年時代に好きだったゲームと、それに伴う人や考えについての話
いい。押切蓮介はミスミソウくらいしかちゃんと読んだことはなかった。そしてミスミソウも表紙だけの漫画だと実際に読んで思った。表紙は飛び抜けて良かったけど内容があまりに凄惨な割に単調だと感じた。
押切蓮介はこんくらい力を抜いて書くほうが面白い。
笑いのセンスがあると思う。
それは、中学生的な思考やワードセンスをまだ大人になっても持っているという意味でだ。
二次元に憧れる青春
でも、作者が言うように、面白くて仕方なかったと思う。
自分の好きなものに全力で投資できた人は幸せだろう。
中高生の時に見ていたかもしれない風景を切り取る目を持っている
3ページめくらいで、女の子について、人生に対してやる気がない顔が好き、という文章が出てきて、それだけでいいなと思えた。